人的資本情報開示にマーケティングの視点を――「USP」としての人材育成

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USP(Unique Selling Proposition)とはマーケティング用語で自社の強みや他社にはない特長を意味する。顧客に対し競争上の優位性、自社ならではの価値を説明するのがUSPであり、いわば会社の「売り」だ。人事領域では馴染みのない言葉かもしれないが、これからはそうでもないかもしれない。投資家を自社の潜在的な顧客と見れば、人的資本情報をどう開示するかは自社のUSP=売りをどう表現するかと同じ思考が必要になるからだ。

  1. 投資家の関心を集める企業の人材育成投資
  2. 人材育成方針に関する開示状況
  3. 人材育成の実績に関する開示状況
  4. 価値創造企業の人材育成に関する開示の傾向
  5. 人材育成はUSP
  6. まとめ

投資家の関心を集める企業の人材育成投資

人的資本情報の中で投資家の関心が高いとされるのが企業の人材投資だ。経済産業省が開催した人的資本に関する研究会の資料では、機関投資家は投資を行う際に「人材育成・教育訓練への取り組み」を考慮する比率が高いことが指摘されている。背景には、同資料の中でも紹介されているが、日本は企業の人材投資が他の先進国と比べて極めて低く、かつその傾向が強まってきたことが挙げられる。[注1]

この結果をもって「日本企業は人材投資を怠ってきた」と結論付けるのは早計だ。統計的に把握できるのはOff-JT、つまり職場の外での教育研修が中心で、日本企業が長らく社員教育の基礎としてきたOJTは含まれないからだ。背景に、OJTは職場ごとに実地で学ぶものであるため実態が見えにくく、また人事部ではなく事業部門などが主体で行うものであるため、投資額としても把握されにくいという事情がある。

したがって、OJTまで含めれば日本企業の人材投資はさほど低くないという見方は可能だが、いずれにしても企業の人材投資がこれまでブラックボックスだった点は否めない。投資家はいま、人材投資への姿勢から企業の未来を予測しようとしている。既存事業をスケールさせるために社員のスキルアップに力を入れているのか、デジタル・トランスフォーメーションを推し進めるためにDX人材の発掘・育成に取り組んでいるのか、それとも新規事業への転換を図るための人材育成に注力しているのか。企業の戦略に人材投資がどう連動するのかを見定めようとしている。

人材育成方針に関する開示状況

では人材育成に関して企業の開示はどの程度進んでいるのだろうか。人的資本情報の開示が義務づけられた2023年3月期決算企業のうち、TOPIX500銘柄の380社について、有価証券報告書の開示実態を見ていこう。

まず2023年1月の内閣府令の改正により、すべての上場企業は「サステナビリティに関する考え方及び取組」の欄に、自社の人材育成に関する方針を戦略として記載することが義務付けられた[注2]。以前から一部の企業では「経営方針、経営環境及び対処すべき課題等」の欄に人材に関する記述を行っていたが、今回の改正によってすべての企業が人材育成について言及することになった。また従来は、人材不足による採用難など人材にまつわる「課題」が記述されることが多かったが、今回の改正では人材育成方針を「戦略」として記述することが求められており、開示内容に質的な変化が期待される状況となっている。

実際の記述内容はどうだろうか。これまで「課題」が記述されていた際には「優秀人材の採用を強化する」、「教育・研修施策を拡充する」など、課題にどう対処するかというHowの表現が目立っていた。しかし「戦略」としての記述が求められるようになったことで、Howだけでなく、人材育成方針を経営戦略にからめて説明する、いわばWhyを表現しようとする企業が増えた印象がある。開示のルールが変わったことで、各企業の人材に対する考え方がより分かりやすくなっていく可能性がある。

とはいえ、定性的な開示の良し悪しを評価するのは難しい。企業によって置かれた状況や経営戦略は異なり、その上で書かれた人材育成の方針が戦略と整合しているか、一貫性を保持しているかを判断するのは容易ではない。そこで次に量的な開示の実態を見ていくことにする。

人材育成の実績に関する開示状況

今回の改正では、人材育成の方針を戦略として記述することに加えて、関連する指標を定量的な数値で開示することが求められている。では人材育成に関わる実績を数値で開示している企業はどのくらいあるだろうか。これを調べるにあたり、企業が人材育成の実績に関してどのような開示を行っているかを見た上で、比較的多かった2つの観点「教育研修のテーマ別実施度」と「教育研修の投資規模」に焦点を当てた。

まず、企業が従業員に対して、どのようなテーマの教育研修をどの程度実施しているかについての開示から見ていこう。研修のテーマとしては、①スキル系(アップスキリングやリスキリング)、②マネジメント系(部下マネジメントやリーダーシップ)、③コンプライアンス系(倫理や人権、ダイバーシティ)、④その他の4種類に分けて見ることにした。実績値としては研修受講者数や受講率、研修プログラム修了数、研修時間など具体的な数値の開示有無をカウントの対象とし、単に「○○研修を行った」などの記述にとどまる場合は除外した。

この結果、テーマを問わず、実施した教育研修について何らかの実績値を開示した企業の比率は32.4%だった。研修のテーマ別に見ると①スキル系23.7%、②マネジメント系10.0%、③コンプライアンス系8.2%、④その他2.1%であった。(ひとつの会社が複数の研修テーマについて開示しているため、テーマ別の合計は実績値を開示した企業の比率32.4%と一致しない)。スキル系の実績開示が23.7%で最も多いものの、それでも全体の4社に1社にとどまった。

教育研修の実績を開示していない企業のほうが多いという結果になったが、対象はTOPIX500企業であり、これら日本の大手企業が研修を行っていないとは考えにくい。開示されない理由としては、実績値を把握できていない、把握できているが開示のメリットを感じない、戦略との紐づけが弱いなど複数考えられるが、いずれにしても、日本企業の人材育成の実態は有価証券報告書を読む限りでは見えにくいままだ。

また、教育研修に対する投資規模についても調べた。具体的には「従業員一人当たりの研修費用」と「従業員一人当たりの研修時間」である。一部に、人材投資金額や人的資本投資額などの記述も見られたが、算出方法は書かれておらず、採用など研修以外の投資も含まれている可能性があるため、各社のレベル感を揃える目的で除外した。

その結果、「従業員一人当たりの研修費用」を開示していた企業は6.3%、「従業員一人当たりの研修時間」を開示していた企業は7.1%であった。また開示企業の実績を平均すると「従業員一人当たりの研修費用」は約10万円、「従業員一人当たりの研修時間」は約25時間であった。ただし企業による実績値の差は大きく、算出方法も各社異なる可能性があるため、一概に比較できるものではないことを了承いただきたい。

このように金額的、もしくは時間的な投資規模を開示する企業は、前述の研修の実施度を開示する企業よりさらに少ない。しかし、従業員にいくら投資しているかという開示は、人材に投資する姿勢を分かりやすく伝え、投資規模が大きければ投資家への積極的なアピールにつながると考えられる。実際開示企業の中には、数値を経年で表記して人材投資を着実に増やしてきたことを示す企業や、現状を大幅に上回る挑戦的な目標値を掲げる企業もあり、こうした企業は人材育成に対する姿勢を投資家に強く印象付けているように感じる。

価値創造企業の人材育成に関する開示の傾向

人材育成に関する開示は、価値創造企業ではどうだろうか。TOPIX500企業のうち資本収益性や市場評価の高い企業によって構成されるJPXプライム150銘柄を、それ以外の企業と比較した(図1)。まず教育研修の実施度に関する開示はJPXプライム150が28.9%、その他の企業が33.6%と、JPXプライム150のほうがわずかに少ないという結果だった。価値創造企業だからといって人材育成の開示に積極的とは限らないといえる。

図1:教育研修の実施度に関する開示があった企業の比率

図1:教育研修の実施度に関する開示があった企業の比率

注:ひとつの会社が複数の研修テーマについて開示しているため全体とテーマの合計は一致しない

出所:パーソル総合研究所作成


研修に対する投資規模の開示はどうだろうか。JPXプライム150企業のうち従業員一人当たりの研修費用を開示していたのは5.2%、従業員一人当たりの研修時間を開示していたのは6.2%で、その他の企業とほとんど変わらないレベルだった(図2)。

図2:従業員一人当たりの研修費用と研修時間の開示があった企業の比率

図2:従業員一人当たりの研修費用と研修時間の開示があった企業の比率

出所:パーソル総合研究所作成


しかし、実際の研修費用と研修時間で見ると、JPXプライム150企業は一人当たり研修費用の平均が15.4万円、一人当たり研修時間の平均が29.7時間と、その他の企業を上回る実績だった(図3)。サンプルが少ないためあくまで参考として見ていただきたいが、価値創造企業は人材により積極的に投資していることが示唆される結果であった。

図3:従業員一人当たりの研修費用と研修時間の平均

図3:従業員一人当たりの研修費用と研修時間の平均

出所:パーソル総合研究所作成

人材育成はUSP

前述した通り、マーケティングの用語にUSPというものがある。他社にない、自社独自の売りのことだ。P(Proposition)とは「提案」の意味で、単なる強みではなく、それをどう顧客に訴えるかというニュアンスを持つ。USPの例としてはドミノ・ピザの「30 Minutes Delivery」や、ダイソンの「No loss of suction(吸引力が変わらない)」などがある。ドミノ・ピザは「注文から30分以内に配達できなければ無料」という、それまでにない斬新な提案で消費者の関心を引き、このUSPを原動力に世界中にチェーン店を持つグローバル企業へと成長した。ダイソンは「吸引力の変わらないただひとつの掃除機」を売りに、他社と機能面で差別化しつつ、高い技術力を持つ革新的な企業としてのブランドイメージを築いた。

USPで重要なのは、独自性に加えてどれだけユーザーや消費者のニーズを捉えているかということだ。ドミノ・ピザは30分以内の配達を約束することで、できたてのピザを待たずに早く食べたい消費者の欲求を満たした。ダイソンは自社製品が新技術により吸引力が低下しないことをうたうことで、それまで紙パック式しか選べなかった消費者に新たな選択肢を提供した。

人的資本情報の開示にもこの発想が生かせるのではないだろうか。開示項目や開示の仕方に独自性が必要だということはよく指摘されるが、加えてそれが投資家のニーズを捉えているかにも注目したい。

人材育成は投資家が関心を寄せている要素なだけにUSPの有力な候補になるだろう。人材育成の方針や戦略は経営戦略との連関を示しやすく、期待もされている。人材の何にどれだけ投資を行い、それによってどのようなリターンを予測しているのか。自社の強みや自社らしさに目を向け、投資家に響くUSPを作るという視点で開示の中身や開示の仕方を検討されてみてはいかがだろうか。

まとめ

2023年3月期決算企業のうち、TOPIX500銘柄の380社について有価証券報告書を調べた結果、実施した教育研修について何らかの実績値を開示した企業の比率は32.4%だった。人材育成は投資家が関心を寄せているにもかかわらず、実際にはあまり開示されていないという結果だった。しかしこのことは、これから開示を本格化させる企業にとってチャンスだともいえる。独自性があり、かつ投資家目線でインパクトのある開示を行う余地がたくさんあるからだ。自社の人的資本におけるUSPは何か――。投資家との対話はもとより、社内の知恵を集めてみるのも面白いかもしれない。


[注1]持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 第6回 参考資料集 p29、p40(https://www.meti.go.jp/shingikai/economy/kigyo_kachi_kojo/006.html )(経済産業省 令和2年7月)

[注2]企業内容等の開示に関する内閣府令等の一部を改正する内閣府令(https://www.fsa.go.jp/news/r4/sonota/20230131/20230131.html )(金融庁 令和5年1月)において、以下のように規定されている ⒜ 人材の多様性の確保を含む人材の育成に関する方針及び社内環境整備に関する方針(例えば、人材の採用及び維持並びに従業員の安全及び健康に関する方針等)を戦略において記載すること。 ⒝ ⒜で記載した方針に関する指標の内容並びに当該指標を用いた目標及び実績を指標及び目標において記載すること。

執筆者紹介

古井 伸弥

サーベイグループ シニアコンサルタント

古井 伸弥

Nobuya Furui

日系・外資系のマーケティング会社で計16年、市場調査と消費者研究に基づく提言を行い、クライアント企業の意思決定を支援する。CSとESの関係性を扱うなかで、社員のモチベーションやリーダーの役割への関心を高め、人と組織の領域にキャリアを移す。2019年「はたらいて、笑おう。」に共感し、パーソル総合研究所に入社。ピープルアナリティクスラボにてHRデータ活用の研究開発、シンクタンク研究員として人的資本情報開示や賃金に関する調査研究に従事。2023年10月より現職。


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