公開日 2023/11/07
コラム「内部通報制度は従業員に認知されているか」「人的資本情報開示に対する強い関心にも後押しされながら、今後、内部通報件数の利用例は増えていくだろう」と指摘した。それでは、有価証券報告書に新設された【サステナビリティに関する考え方及び取組】を通して、人的資本情報開示の一環として内部通報を記載する企業はどのくらいあったのだろうか。
本コラムでは、大手企業の有価証券報告書の記載状況を通して、この疑問に向き合ってみたい。
実際に記載状況を見る前に、人的資本情報としての内部通報の位置づけについて考えてみよう。人的資本情報開示が義務となったことで、最新の有価証券報告書にはエンゲージメントや教育研修投資などに関する取り組みや、その指標の記載が多く見られた。エンゲージメントや教育研修投資をはじめ、企業の成長性を感じさせるようなものが多く用いられていたことは、今回の開示の特徴のひとつといえるだろう。有価証券報告書の主要な読者が投資家であることを鑑みれば、こうした成長性の観点から人的資本情報開示を行うことは重要だ。一方、投資家は成長のみを見ているわけではなく、リターンとリスクのバランスを常に念頭に置いている。この点を考慮するならば、企業が行うべき人的資本情報開示にはリスクの側面が含まれるべきと考えることができる。その意味で、人的資本情報開示が成長性に関するものばかりになっていた場合、投資家の求める情報との間には、齟齬が生まれている可能性がある。
とはいえ、リスク管理の方法、とりわけリスクを発見する仕組みは、従来から数々実施されてきた。伝統的には、社内・社外監査によって自社内の不正を発見しようとしてきた。近年は社内だけでなく、バリューチェーン上の問題の発見にも努めることが増えている。人権デューデリジェンスはその代表的な方法である。基本的にこれらは本社側が現場を見に行く仕組みである。言い換えれば、現場から直接が声あがってくるようなものではない。そのため、現場でのふとした気づきが不正やその兆候の発見に生かされないといったことが起こりうる。
対照的に、内部通報は現場からの声を起点にする仕組みである。ただし、一定の頻度で行われる社内・社外監査や人権デューデリジェンスとは異なり、内部通報は設置されていても、通報がまったく、またはほとんどなされず、実質的に稼働しない場合があり得る。そのため、実効性の判断は、まず通報件数によってなされる。しかし従来、内部通報件数は公表しないものとして、経営層など一部での共有に限定し、モニタリング対象の数値として扱う企業も珍しくなかった。
内部通報制度を整え、運用する段階と、その件数を公表する段階の間には、大きな壁がある。公益通報者保護法が2020年6月に改正されたことを受けて、件数の公表も議論の俎上に載せたものの、「社内理解が追い付かないので、件数の対外公表は行わない」という結論に達した企業もあっただろう。他方、コンプライアンスを重視する企業が、内部通報件数を開示する方向で社内に呼びかけるような例もある[注1]。
上記をもとに、内部通報と情報開示の関係を整理すると、次の3つに大別できる。つまり、①件数は社内のモニタリングにとどめ、内部通報制度自体の開示も行わない場合、②内部通報の件数は開示しないが、制度自体の紹介は行う場合、そして③制度の紹介とともに、件数もあわせて開示を行う場合である。そして、①より②、②より③と、企業の抵抗感は増加する。他方で、社会的な動向に目を移すと、2023年の改正によって有価証券報告書に人的資本情報の記載が必要となり、その中には「指標及び目標」が含まれている。そして、上述のように内部通報件数は、リスク管理の観点から有用な指標と考えられる。そのため、これを機に内部通報件数の記載を検討した企業もあったことが想像される。それでは、実際に有価証券報告書を通して開示した企業はどのくらいあったのだろうか。
今回、有価証券報告書の確認対象企業としたのはTOPIX500指数構成銘柄のうち、2023年3月期決算の企業、380社である。その結果、新設された【サステナビリティに関する考え方及び取組】欄で内部通報制度について何らかの言及があったのは、27社だった。これは380社のうちの7%であり、かなり少ないように感じられる。
この理由について考えてみよう。コラム「有価証券報告書を通した人的資本のリスクの開示状況と課題」で、人的資本のリスクに関する記載箇所が【事業等のリスク】も含め3箇所あることを指摘した。今回の内部通報についても、こうした状況は同様であった。具体的には、【事業等のリスク】で内部通報についての言及を行う企業が70社以上あり、さらに【経営方針、経営環境及び対処すべき課題等】で言及する企業もあった。内部通報は、リスク管理の方法のひとつであり、その位置づけや運用方針は各社で異なる。こうしたことが、このような記載位置のバラつきを生んだものと考えられる。
内部通報は各社が不正やその兆候を理解するツールであり、またそれが機能していれば、それは従業員が何かを見たり、聞いたりした際に、確実に声をあげられる土壌が整っている証左でもある。そのため、内部通報件数は、各社が不正リスクを適切に管理できるかを示すものである。
こうした重要性を念頭に、【サステナビリティに関する考え方及び取組】において内部通報に言及していた27社が、人的資本に関わる「指標及び目標」として、内部通報件数を記載していたかを確認してみよう。その結果、27社のうち、実績値の記載があったのは4社だった。これは、「内部通報制度を整えている」という段階から、「内部通報件数を社外に示す」という段階には、依然厚い壁があることを示しているものと理解できる。
上述の通り、内部通報件数を記載する企業数は少なかった。しかし、件数とは別に内部通報に関連する興味深い「指標及び目標」を採用する事例も見られた。まず、不正などを発見した際に行動に繋がるように通報訓練の経験率を記載する企業があった。他には、内部通報制度の認知度を目標として掲げる企業があった。
コラム「内部通報制度は従業員に認知されているか」において指摘したように、内部通報件数はその経年変化の解釈が悩ましい数値だ。具体的には、内部通報は年ごとにその件数が変動するものの、それが「内部通報制度が知られていないから、件数が増えない(または減っている)のか」、または「内部通報の必要がないから、件数が増えない(または減っている)のか」を確認することは簡単ではない。これは、内部通報制度が整備・運用されているものの、そのことを知らない従業員が一定数存在していることに由来する。当然のことながら、内部通報制度の認知度が低ければ、不正やその兆候に気づいても通報される可能性もまた低くなる。反対に、内部通報制度の認知率が高い企業であれば、何かあった場合には内部通報に繋がることが期待できる。
内部通報制度の認知率が高ければ、例え不正が生じたとしても、早期発見・早期解決に繋がることが期待できる。有価証券報告書を読む投資家からすれば、こうした企業は大きなリスクを抱えにくいものとして理解しやすい。また、世界各国から調達を行う企業では、内部通報を社内だけでなく、バリューチェーンに対して広く開放し、その情報を取り込んでいくことが、人権に関するリスク管理として、一層求められることになるだろう。これはビジネスと人権への関心が高まるなかで、今後一層重要性を増すことが予測される[注2]。
本コラムでは、リスク管理の観点から内部通報の位置づけについて確認し、2023年3月期決算の有価証券報告書の記載状況を確認してきた。リスク管理を語る上で内部通報の重要性を強調しすぎることはないが、現時点で人的資本情報開示として積極的に有効に活用されているわけではない。しかし、このような状況だからこそ、内部通報についての開示を充実させることで、優れたリスク管理を行う企業として投資家との対話に臨むことができるのではないだろうか。
[注1]佐々木聡「日本の人的資本経営が危ない」日本経済新聞出版
[注2]人的資本情報開示とビジネスと人権の関連性については、コラム「有価証券報告書、ISSB、TISFDから考える人的資本情報開示のこれから」を参照。
シンクタンク本部
研究員
今井 昭仁
Akihito Imai
London School of Economics and Political Science 修了後、日本学術振興会特別研究員、青山学院大学大学院国際マネジメント研究科助手を経て、2022年入社。これまでに会社の目的や経営者の報酬など、コーポレートガバナンスに関する論文を多数執筆。
本記事はお役に立ちましたか?
次のコラム
海外のHRトレンドワード解説2024 - BANI/Voice of Employee/Trust
高齢化社会で求められる仕事と介護の両立支援
男性育休の推進には、前向きに仕事をカバーできる「不在時マネジメント」が鍵
男性が育休をとりにくいのはなぜか
男性の育休取得をなぜ企業が推進すべきなのか――男性育休推進にあたって押さえておきたいポイント
調査研究要覧2023年度版
人的資本経営を考える
人的資本情報開示のこれまで、そしてこれから
なぜ、日本企業において男性育休取得が難しいのか? ~調査データから紐解く現状、課題、解決に向けた提言~
《インテグリティ&エンパシー》いつの時代も正しいことを誠実に 信頼されることが企業価値の根源
《“X(トランスフォーメーション)”リーダー》変革をリードする人材をどう育成していくか
人的資本情報開示にマーケティングの視点を――「USP」としての人材育成
男女の賃金の差異をめぐる課題
有価証券報告書を通した人的資本のリスクの開示状況と課題
エンゲージメントとは何か――人的資本におけるエンゲージメントの開示実態と今後に向けて
女性管理職比率の現在地と依然遠い30%目標
企業と役員の人的資本に対するコミットメントに整合性を
有価証券報告書を通した人的資本のガバナンスの開示状況とその内容
有価証券報告書、ISSB、TISFDから考える人的資本情報開示のこれから
女性役員比率30%目標から人的資本経営を見直そう
役員報酬設計を通して示す人的資本経営へのコミットメント
株主総会の招集通知から見えた、人材に関する専門性不足
男性育休に関する定量調査
先行対応企業の開示から考える人的資本に関する指標の注目ポイント
内部通報制度は従業員に認知されているか
有価証券報告書による人的資本情報開示 企業の先行対応を調べる過程で得た3つの気づき
人的資本情報開示に先行対応した企業の有価証券報告書から何が学べるか
真に価値のある「人的資本経営」を実現するため、いま人事部に求められていることは何か
企業の競争力を高めるために ~多様性とキャリア自律の時代に求められる人事の発想~
HITO vol.19『人事トレンドワード 2022-2023』
目まぐるしく移り変わる人事トレンドに踊らされるのではなく、戦略的に活用できる人事へ
2022年-2023年人事トレンドワード解説 - テレワーク/DX人材/人的資本経営
地に足のついた“独自の”人的資本経営の模索を
人的資本経営は人事によるビジネスへの貢献の場 リーダーの発掘・育成の環境を整え企業成長を
人的資本経営は企業特殊性を最大限に生かす事業戦略と人材戦略を
人事は経営企画、財務、事業企画と共に 「持続的な企業の成長ストーリー」を語ろう
特別号 HITO REPORT vol.13『動き出す、日本の人的資本経営~組織の持続的成長と個人のウェルビーイングの両立に向けて~』
人的資本情報の開示に向けて
人的資本経営と情報開示を巡る来し方と行く末 ―ウェルビーイング時代の経営の根幹「人」へのまなざし―
~サイボウズの人的資本経営~ 企業理念やポリシーをいかに開示できるか 型にはめるより伝わりやすさを重視
~ポーラの人的資本経営~ 企業は人の集合体。ポーラに脈々と伝わる「個を大切にするDNA」でサステナビリティ経営を推進
《人的資本経営》「人への投資」が投資判断に影響する 今こそ企業存続への正しい危機感を
人的資本情報開示に関する調査【第2回】~求職者が関心を寄せる人的資本情報とは~
会社と社員のパーパスを重ね合わせ エンゲージメントの向上を通じた人的資本経営の高度化を目指す
人的資本経営を“看板の掛け替え”で終わらせてはいけない 個人の自由と裁量をどこまで尊重できるかが鍵
CFO/FP&Aの観点から考える CHROとCFOがCEOを支える経営体制の確立と人材育成の方向性
人的資本経営は「収益向上」のため 人事部はダイバーシティ&インクルージョンの推進から
~KDDIの人的資本経営~ 投資家との対話は学びの宝庫 人事は投資家と積極的に相対しよう
自社の人材戦略に沿ったストーリーあるデータを開示 人材に惜しみなく投資することで成長するサイバーエージェントの人的資本経営
経営戦略と連動した人材戦略の実現の鍵は人事部の位置付け ~人的資本経営に資する人事部になるには~
人的資本の情報開示の在り方 ~無難な開示項目より独自性のある情報開示を~
人的資本経営の実現に向けた日本企業のあるべき姿 ~人的資本の歴史的変遷から考察する~
人的資本情報の開示で自社の独自性を見直す好機に~市場は人材や組織の成長力を見ている~
人材版伊藤レポートを読み解く
人的資本情報やその開示に非上場企業も高い関心 自社の在り方を問い直す好機に
《人的資本経営》多様な個を尊重し、挑戦を促すことで企業発展につなげたい
人的資本経営の実現に向けて 人材版伊藤レポートを概観する
《人的資本経営》対話が社員の心に火をつける 時間という経営資本を対話に割こう
人的資本情報開示に関する実態調査
follow us
メルマガ登録&SNSフォローで最新情報をチェック!