公開日 2022/06/10
執筆者:シンクタンク本部
グローバル化や産業構造の急激な変化、少子高齢化、人生100年時代の到来、働き方に関する価値観の多様化など、企業を取り巻く環境は大きく変化している。こうした中で、「人的資本経営」に注目が集まっており、人的資本経営の情報開示に向けた機運も高まっている。
例えば、2018年には国際標準化機構(ISO)が人的資本の情報開示に特化した初の国際規格「ISO 30414」を発表。米国では2020年に、米国証券取引委員会(SEC)が上場企業に対し「人的資本の情報開示」の義務化を発表するなど、世界では情報開示の要請が進む。
国内でも、2021年6月に、東京証券取引所がコーポレートガバナンス・コードを変更し、「人的資本に関する記載」が盛り込まれた。また、経済産業省では人的資本に関する研究会を開催し、その報告書*として通称「人材版伊藤レポート」を2020年9月に公表。2022年5月には、さらに実践に向けた具体的事例などを明示した通称「人材版伊藤レポート2.0」を公表したことで、国内企業の関心はさらに高まっている。そこで本コラムでは、この「人材版伊藤レポート」の概要から確認していく。
*持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書
2020年9月、経済産業省において2020年1月から実施されていた「持続的な企業価値向上と人的資本に関する研究会」の報告書が公表された。本報告書は、研究会で座長を務めた一橋大学名誉教授の伊藤邦雄氏にちなみ、通称「人材版伊藤レポート」と呼ばれる。伊藤氏はレポート検討時に、「コーポレートガバナンスの文脈」「持続的企業価値創造の文脈」「投資家目線の文脈」の3つの新たな文脈を意識したとしている。
レポートは、「第1章 人材戦略の変革の方向性」「第2章 経営陣、取締役会、投資家が果たすべき役割」「第3章 人材戦略に共通する視点や要素」の3章構成になっている。その章立てに沿って内容を概観しよう。
企業経営における人材戦略はパラダイムチェンジ(変革)を迫られている。第1章では、その方向性の「従来」と「今後」を比較し示している(図1)。例えば、「人材マネジメントの目的」は、「人的資源の管理」から「人的資本の価値創造」へ変えるべきとしている。「人材」を「資源」ではなく「資本」と捉え、人的資本の価値を創造することによって、企業価値を創造していくことが重要となる。
また、人材にまつわるアクションは従来「人事」と呼ばれ、人事諸制度の運用・改善を目的としていたために、経営戦略と連動していないこともあった。しかし、これからは「人材戦略」として、持続的な企業価値の向上を目的とし、常に経営戦略から落とし込み策定することが必要となる。
図1:変革の方向性
第2章では、人材戦略の変革にあたって、「経営陣によるイニシアティブ」「取締役会によるガバナンス」「企業と投資家との対話の強化」の3つが重要だと語る(図2)。経営陣においては、企業理念や企業の存在意義(パーパス)、経営戦略を明確化した上で、経営戦略と連動した人材戦略を策定・実行するべきだという。
取締役会では、「人的資本あるいは人事・人材戦略について」をアジェンダとして上程し議論すべきであり、自社の人材戦略の方向性が経営戦略の方向性と連動しているか、経営陣を監督・モニタリングする必要性もあるとしている。
投資家においては、中長期的な企業価値の向上につながる人材戦略について、企業からの発信・見える化を踏まえて対話を行い、投資先の選定を行うことが求められる。
図2:経営陣、取締役会、投資家の役割・アクション
第3章では、「人材戦略」に求められるものとして、3つの視点(Perspectives)と5つの共通要素(CommonFactors)をまとめている。視点は、「1.経営戦略と人材戦略の連動」、「2.As is-To beギャップの定量把握」、「3.企業文化への定着」の3つ。共通要素は、「①動的な人材ポートフォリオ」「②知・経験のD&I」「③リスキル・学び直し」「④従業員エンゲージメント」「⑤時間や場所にとらわれない働き方」の5つである。それぞれの関係性は、図3で確認いただきたい。
図3:人材戦略に求められる3つの視点・5つの共通要素(3P・5Fモデル)
とりわけ強く訴えているのは、1つ目の視点「経営戦略と人材戦略の連動」である。これからは、経営戦略・ビジネスモデルと表裏一体で、その実現を支える人材戦略を策定・実行することが必要不可欠である。経営戦略やビジネスモデルが企業ごとに異なるのと同様に、人材戦略も企業ごとに異なるため、企業は自社のビジネスモデルや経営戦略に向き合い、自社に適した人材戦略を考える必要がある。また、人材戦略は個社性が強い一方で、経営戦略の実現に必要な人材ポートフォリオの充足や多様な個人・組織の活性化等のように、各社に共通する視点や要素も存在する。企業は、こうした共通要素や、自社の経営戦略上重要な人材アジェンダについて、経営戦略とのつながりを意識しながら、具体的な戦略・アクション・KPI を考えることが有効である。
共通要素からも1つ、「動的な人材ポートフォリオ」について触れておこう。経営戦略を実現させるためには、人材を質・量の両面で充足・最適化させることが必要だ。従来は、現時点の人材やスキルを起点に考えていたが、これからは、経営戦略の実現、新たなビジネスモデルへの対応という将来的な目標からバックキャストする形で、必要となる人材の要件を定義し、その要件を充たす人材を獲得・育成することが求められる。
デジタル化、脱炭素、コロナ禍といった環境変化により、人的資本に関する課題はますます顕在化している。そのような中で、「人材版伊藤レポート」に続き、2022年5月に新たに公表された「人材版伊藤レポート2.0」は、人的資本経営の実践に向けて、さらに深掘りした内容となっている。具体的には、「3つの視点・5つの共通要素」という枠組みに基づいて、「①実行に移すべき取り組み」「②その重要性」「③有効となる工夫」を示すほか、具体的な企業事例や調査結果も同時に公表されている。
ただし、報告書の中で掲げられている項目すべてをチェックリスト的に取り組む必要はないとする。企業によって置かれた環境はさまざまであり、外形的に当てはめて行動することは意味をなさないからだ。「人的資本が重要である」という認識から一歩踏み込んで、「経営戦略と連動した人材戦略をどう実践するか」「情報をどう可視化し、開示していくか」、この両輪で取り組んでいくことが重要だろう。
「人材版伊藤レポート2.0」は、経営陣が自社の課題を特定し、経営戦略と連動した人材戦略を実践していくための「アイデアの引き出し」として活用したい。そのアイデアをどう具体化するかは、企業、とりわけ経営陣の意思にかかっている。
※図版は、「経済産業省『人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書(人材版伊藤レポート)』を基にパーソル総合研究所にて作成
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