公開日 2022/11/09
2022年5月に公表された「人材版伊藤レポート2.0」の検討会「人的資本経営の実現に向けた検討会」の委員であり、経営学の専門家、およびダイバーシティ研究の第一人者である早稲田大学の谷口真美教授。人的資本経営を実践する企業、その企業を評価する投資家、そのどちらにも偏らない立場から客観的な視点で、人的資本経営の「本質」について伺った。
早稲田大学 商学学術院 大学院商学研究科 教授 谷口 真美 氏
1996年神戸大学大学院経営学研究科博士後期課程修了、博士(経営学)取得。広島大学大学院社会科学研究科助教授を経て、2000年より米国ボストン大学大学院組織行動学科・エグゼクティブ・ラウンドテーブル客員研究員。2003年より早稲田大学助教授(准教授)。2008年より現職。2013~2015年にはマサチューセッツ工科大学(MIT)スローン経営大学院研究員。著書に『ダイバ シティ・マネジメント―多様性をいかす組織』(白桃書房)があり、新著も企画中。
――谷口先生は「人材版伊藤レポート2.0」の検討会に参画するにあたり、どのようなことを期待されていたとお考えですか。
最初に触れておきたいことがあります。省庁から人的資本経営に関する指針やガイドラインが提示されると、コンサルティング会社の中にはせっかくの指針やガイドラインを「骨抜き」にして表面的な取り繕い方を指南し、その結果、実践している”ふり”の企業が増えるという現象が起こります。本日は「地に足のついた人的資本経営の実践」についてお話ししたいと思います。
私は2011年から経済産業省によるダイバーシティの啓発委員会に参画し、さまざまな企業のダイバーシティに関する取り組みを拝見し、事例集の作成に関わってきました。ですから、「人材版伊藤レポート2.0」の「5つの共通要素」のひとつに掲げられた「知・経験のD&I」における知見が求められたのだと思います。
また、検討会には企業の方々多くが参画されていましたが、自社の取り組みの紹介は時に自画自賛になったり、逆に過度な謙遜になったりするバイアスがかかってしまいます。そこで、学識者・研究者として、実務から一定の距離をとった俯瞰的視点を持つように心がけました。
――検討会の中で、委員全員が「これは重要だ」という共通意識を持ったテーマはありましたか。
その問いに対する回答は逆です。「これは重要だ」という視点を持ってはいけない。委員の皆さんと一致していたのは、「これだけやればいい、これだけが重要だという表現はしない」ということでした。まさに指針やガイドラインを骨抜きにしてしまうからです。各企業の歴史、特性、現状など、置かれた状況に応じて自分たちで模索し選ぶプロセスが重要だと考えたのです。「人材版伊藤レポート2.0」はそのプロセスにおいて知恵がほしいときのための「手引き書」です。
――「人材版伊藤レポート2.0」の3つの視点と5つの共通要素のうち、どれが最も大切か、といった質問がありますが、その考え自体が依存的であるというご指摘ですね。
そうです。受け身になって、思考停止にならないよう注意していただきたいですね。選ぶのは私たち検討会の委員ではなく、企業の皆さんなのです。
――人的資本情報の開示項目に関しても答えを求められることがあります。十分ではない数値を出たとこ勝負で出すのが怖い、他社の動向が知りたいなど。
他社と同じような開示項目を出すことは比較可能性の要求に応えることになりますが、一方でネガティブチェックにつながります。「人材版伊藤レポート2.0」では、いかに企業の独自性、つまりポジティブな側面を伸ばせるかを大切に書きました。自社のビジネスモデルに合わせて、自社なりの開示項目を設計してほしいのです。
「人材版伊藤レポート2.0」では、有価証券報告書よりも自由度の高い「統合報告書」などに独自性のある情報を記載するよう伝えています。しかし近年、その「統合報告書」のページ数が増えて、ただ分厚くカラフルになるだけで、本当に社外のステークホルダーにとって必要な情報が記載されなくなってきている。投資家は綺麗な絵が見たいわけではないのです。外側を整えて内側まで変わったふりをする企業が増えないよう気をつけなければなりません。
――検討会でのお話しに戻りますが、「議論が白熱したテーマ 」はありましたか。
1つは、多くの企業で人事制度がほとんど変わっていないことが問題だと取り上げられました。2つは、ダイバーシティ&インクルージョンに関して。3つは、企業のトップは真剣で若手もやる気があるがミドルだけが変わらないといった議論もありました。これに対して委員からは、そのミドルを作り上げたのはトップでもあるため、すべてミドルだけの責任ではない旨の意見もありました。
――1つ目の人事制度については具体的にどのような議論がなされたのでしょうか。
人事制度が変わっていないとはつまり、経営効率が悪くても、組織の慣性で日本型雇用のままになっている企業がまだまだ多いということです。転換の典型例は「ジョブ型雇用」への移行です。とはいえ、すべての企業が、すべての事業で、ジョブ型雇用に移行すれば企業価値が向上するかといえば、そうではありません。制度を変えること自体を目的にせず、自社にとって本当に必要かどうかを見極めることが重要です。
――ジョブ型雇用が順応しない場合とは、どのような状況でしょうか。
合計値を考えるとわかりやすくなります。例えば、大リーガーのような優秀人材を高額で採用したところ、既存社員のモチベーションが下がり、合計値が下がることがあります。大リーガーの力を10としたら、既存社員の力は10だったのが3や4に下がってしまう。互いに支え合ったり、協力し合ったりすることで成立している組織では、特定の個だけに注目すると、互いの力を打ち消しあってしまうのです。事業戦略との整合性を図った上で、雇用制度も人事制度も変更していく必要があると思います。
――白熱した議論の2つ目は、谷口先生のご専門である「ダイバーシティ」についてとのこと。詳しく教えてください。
これまでダイバーシティについて語られてきたのは、人口統計学的にマイノリティにあたる方々の差別・区別をやめましょう、といった底上げ(弱者救済)の話でした。一方、検討会で主に議論に上がったのは、いろいろな知識や経験、視点を持つ人がいるとイノベーションが起こる、という観点でした。新卒たたき上げではないからこそ歩めた経歴を基にした視点、あるいはアルムナイ(一度退社し再入社した人材)の視点を活かすこと。年齢でいえば若手の視点を取り入れることで、企業価値の向上につなげようという話です。
――日本企業におけるダイバーシティ&インクルージョンは、思ったよりも進んでいない印象ですがなぜでしょうか。
「知と経験」―私はこれを深層のダイバーシティと呼んでいますーに着目するとダイバーシティが全員の問題になってくるという利点があります。他方で「知と経験」だけに着目すると、そもそも選抜のスタートラインに立てないマイノリティにとっては不利のままです。例えば「管理職比率の数値目標を設定しなくても、公平であればいいじゃないか」という主張につながり、結果、女性をはじめとするマイノリティの管理職比率が増えない現象に陥っています。やはり、「知と経験のD&I」と「マイノリティが活躍できるD&I」の両方に取り組んでいく必要があります。
というのも、女性をはじめとするマイノリティには、まだまだハンデがあり、同じ学歴や職種、専門性があっても同じテーブルに上がった時に、選抜から落ちてしまうことがあります。ハンデの解消を疎かにしてしまう、日本企業の慣行がネックになっていると検討会の委員からも意見がありました。
――金融庁は、有価証券報告書に女性管理職比率の記載を義務付ける方針を出しました。こうしたきっかけでダイバーシティ&インクルージョンは加速するでしょうか。
女性をはじめとしたマイノリティの登用には、やらなければならないという倫理的(社会的責任)要求と、企業価値の向上につながるという経営合理的要求の2つの要求が存在します。「女性管理職比率30%」という指標があると、日本企業の多くはまず、倫理的(社会的責任)要求に応えようとします。ただ、ある水準を境に、「他の企業よりも競争優位に立てること」「自社の優位性につながること」に気づき、経営合理的要求への対応に転換することになると思います。
――最後に、人事部長や人事領域に従事するかたへメッセージをお願いします。
2つあります。1つ目は、人的資本経営は、中長期的に企業価値を高めるために実施するべきですが、チェックリストを消化するように、ピースや手段だけに着目すると結果につながりません。自社の戦略とビジネスモデルにあった、独自の取り組みを行なっていただきたいです。
2つ目は、地道に取り組んできた企業は、コンサルの稼ぎ場になることなく継続して取り組んでいただきたいということです。神戸大学大学院の三品和広教授は、日本企業1,000社以上の戦略的意思決定とその実行による企業価値向上について、1960年から現在にいたるまで時系列で主に質的に調査研究をされていますが、同教授との議論の中で、実際、人的資本経営に近いものに長年取り組んでいる企業、それによって企業価値向上が実現できている企業が存在します。そうした企業は、人的資本経営の実践がブームになったからといって踊らされる必要はありません。他方、これまで取り組んでこなかった企業の人事は、形式にだけに捉われず、どうか地に足のついた人的資本経営を実践してください。そのためには、コンサルティング会社は「これさえやっておけばよい」と「可視化指針」や「人材版伊藤レポート2.0」を骨抜きにしないことです。
※文中の内容・肩書等はすべて掲載当時のものです。
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