公開日 2023/10/31
エンゲージメントという言葉を耳にする機会が多くなった。人的資本経営の主要な指標という認識が広まったことも背景にあるだろう。本コラムは人的資本情報におけるエンゲージメントの開示実態と、今後の開示のポイントについて議論したい。
人事領域でエンゲージメントが注目されるようになったきっかけは2018年にさかのぼる。それまで人材・組織の分野では、労働慣行や法規制が国によって異なることから国際的なルールが未整備のままであったが、国際標準化機構(ISO)が人的資本情報開示のためのガイドラインISO30414を発表した。背景には、ESG投資を重視する投資家が企業の非財務情報である人的資本への関心を高めていたことがある。エンゲージメントはISO30414が規定する58の指標のひとつに数えられている。
2020年には米国証券取引委員会(SEC)が上場企業に対して人的資本の情報開示を義務化。この際SECがISO30414への準拠を推奨したことから同ガイドラインへの注目が集まることになる。また時を同じくし、日本においても経済産業省が「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会」を立ち上げ、報告書(『人材版伊藤レポート』)を取りまとめる。この中で従業員エンゲージメントは企業の人材戦略に共通して求められる観点のひとつとして取り上げられる。2022年にアップデートされた『人材版伊藤レポート2.0』では、自社にとって重要なエンゲージメント項目を特定し、その状態を測定することの重要性が説かれている。
実際エンゲージメントはどの程度開示されているのだろうか。2023年3月期決算のTOPIX500企業(380社)の有価証券報告書を調べた結果を見てみよう(図1)。従業員のエンゲージメントに何らか言及している企業は64.2%に上った。およそ3社に2社が、従業員のエンゲージメントに関心を寄せていることが分かる。しかしエンゲージメントの実績値[注1]を開示していたのは27.9%にとどまった。
図1:エンゲージメントの開示状況
出所:パーソル総合研究所作成
このギャップ(36.3ポイント)はエンゲージメントに関心を寄せながら測定していない企業と、測定はしているものの開示を見送った企業が該当する。測定していない企業の中には、今後測定し開示する企業も出てくるだろう。実際、2023年度から測定する計画を有価証券報告書の中で記述する企業もあった。
ここで議論しておきたいのは、測定していながら開示しないケースについてである。測定の有無自体は必ずしも明らかにされないため、測定結果を開示しないケースがどの程度あるかは知り得ないが、開示しない理由としては、おそらく結果が芳しくないことが想像される。今回実績値が開示されていたケースを見ると、結果が比較的良い傾向にあったため、結果が悪いことを理由に開示しない企業があるという予想は、ある程度理に適う。
この「結果が悪いため開示しない」という判断をどう評価するかは難しい。数値が多少悪くても開示することによって問題に真摯に向き合う姿勢を示すことができる、あるいは、大事なのは改善のプロセスであり現状が悪くても今後数値が向上していけば良い――といった理由で開示を推奨する声もある。しかし、投資判断への影響は現時点では未知数であり、現実問題として悪い数値を開示することは容易ではない。経営レベルの判断が必要になるだろう。
また、開示できる結果が偏差値化されている場合には、別の難しさがある。というのも偏差値というものは、高い企業と低い企業がどちらも必ず存在する構造になっているからだ。自社の状態が変わらなくても、他社の状態が改善すれば自社の偏差値は下がってしまう。今の結果が良くても、先々のことを考えると開示に二の足を踏むような性質のものなのだ。
しかし今後、エンゲージメントに対する開示期待は高まっていくだろう。それはエンゲージメントが、従業員の意識を表したものであるという点でユニークだからだ。開示が義務化された女性管理職比率や男女の賃金差異、男性育休取得率はいずれも雇用や働き方の実態を示してはいるが、その裏で従業員がどのような認識を持っているかは見えてこない。人材育成や労働災害に関わる数値も同様だ。離職率は、会社への不満など従業員の認識を反映した結果といえるかもしれない。しかし離職の要因はさまざまであり、従業員の意識を直接的に示すものではない。今後企業は、エンゲージメントが開示指標として一般的になることを想定して準備を進めるべきだろう。
投資家が期待する情報は、エンゲージメントの実績値もさることながら、それをどのように上げようとしているのかという戦略にもあるのではないか。そこでエンゲージメントについて言及している企業が、エンゲージメントを高めるための施策にも言及しているかどうかを見た(図2)。該当したのは全体(380社)の40.0%の企業で、実績値を開示した企業(27.9%)より12.1ポイント高いという結果だった。実績値に比べると記述しやすいという側面があるようだ。
図2:エンゲージメント施策の開示状況
出所:パーソル総合研究所作成
具体的な施策は企業によってさまざまだった。人事制度の改定や労働環境の改善、組織風土改革、コミュニケーションの活性化、育成、スキルアップ、自律的なキャリア形成に向けた支援、上司による1on1の実践や部下マネジメントスキルの向上、などである。こうした施策が職位別や職種別など具体的に記述されていたり、経営戦略や人材戦略との連関を示しながら説明されていたりすると、エンゲージメントを高めるプロセスが分かり、戦略的に取り組まれていることが伝わってくる。
一方でエンゲージメントについて何らか言及されていても、具体的な施策への言及がなければその真意は伝わりにくい。エンゲージメントのスコア(実績値)を開示するだけの場合も同様だ。エンゲージメントを重視するのであれば、指標として開示するだけでなく、それをどう高めようとしているかを投資家に説明するのが良い。
ここまでエンゲージメントに関する開示実態を見てきた。ここからは、今後の開示に向けて2点ほど指摘したい。
ひとつめは、自社にとってのエンゲージメントの意味を明確にする重要性だ。ここまでエンゲージメントという言葉を特に定義せずに用いてきたが、そもそもエンゲージメントとは何だろうか。辞書を引くと、契約、約束、参加、巻き込むこと、などとある。『人材版伊藤レポート』では、ウイリス・タワーズワトソン社(現WTW)の定義を引用し「企業が目指す姿や方向性を、従業員が理解・共感し、その達成に向けて自発的に貢献しようという意識を持っていること」を指すとしている[注2]。この定義では、従業員が会社に貢献しているかどうかという一方向のベクトルが示されている。同じく経済産業省から出された『未来人材ビジョン』の中では、エンゲージメントは「個人と組織の成長の方向性が連動していて、互いに貢献し合える関係」と表現されており、従業員と会社がお互いに貢献し合えているかどうかという双方向のベクトルが示されている[注3](図3)。
図3:エンゲージメントのベクトル
出所:パーソル総合研究所作成
企業はエンゲージメントをどう定義しているのだろうか。今回調べた有価証券報告書の中で上記の定義に近い記述としては、前者では「会社のパーパスに共感」「組織が成功するために、自らの力を注ぎ、努力をしたいと考えているか」、後者では「従業員と会社が互いの中長期的な成長を促進しあう関係性」「従業員と会社が対等で、価値を提供しあう関係」「従業員と会社の共鳴」などの定義が見られた。
また、エンゲージメントの対象を仕事と会社に分けて定義する企業もあった。「仕事に対する情熱、会社に対する愛着」「仕事に対する活力・熱意と組織に対する愛着・帰属意識」「自身の業務に対するやりがい、今の会社に対する帰属意識」などである。先ほどの定義が、貢献意欲などエンゲージメントが高まった結果として得られる「成果」に近い概念であるのに対し、対象を仕事と会社に区別した定義は、情熱や愛着などエンゲージメントの「状態」そのものに近い概念といえる。
このように企業によってエンゲージメントの定義は異なるわけだが、何らかの定義を示している企業は実は少数派だ。多くの企業はエンゲージメントが何を意味しているかを明確にしないまま、実績値を開示している。しかし今見てきたようにエンゲージメントは実は多義的だ。エンゲージメントを「会社への貢献」と一方向で捉えているのか、「会社と従業員が互いに貢献し合うこと」と双方向で捉えているかによって、結果の意味合いはだいぶ変わってくる。開示された実績値が「エンゲージメントの状態」を示しているのか、「エンゲージメントの成果」を示しているかによっても、読み手に与える印象は変わるだろう。エンゲージメントの定義が定まっていない分、自社の定義を明確にする必要がある。そのためには投資家はもとより、従業員との対話も重要になってくる。
今後のエンゲージメントの開示に向けてもうひとつ重要なのは、エンゲージメントを高める意義について、従業員としっかり認識を合わせていくことである。エンゲージメントが注目される前、多くの従業員意識調査が測っていたのは従業員の「満足度」だった。もともとは、顧客満足(CS)の重要性がうたわれる中、顧客にサービスを提供する従業員の満足(ES)も重要だという認識が広がり、従業員調査が行われるようになった。今でも従業員満足度調査は存在し、従業員満足度とエンゲージメントが特に区別されずに扱われるケースも散見される。どちらも従業員が会社をどう見ているかという点は変わらず「同じようなものだ」という見方もある。
従業員満足度調査が測っているのは「満足」という誰にも分かりやすく、誰もが大事だと感じる概念であり、企業が従業員の満足度に関心を持ちそれを把握しようとすることに疑問は生じにくい。しかしエンゲージメントは先に見たように多義的であるため、エンゲージメントがその会社にとってどのような意味を持ち、エンゲージメントを高めることが企業の戦略上どう位置づけられ、企業価値向上にどうつながるのかは、説明されないとよく分からない。エンゲージメントを高めるための施策については、前述のとおりTOPIX500企業の4割が記述をしているが、自社にとってのエンゲージメントの意味とエンゲージメント向上がどう価値創造につながるのかというストーリーを語っている企業は非常に少ない。
そのことの影響は、投資家に響かないというだけでなく、エンゲージメントの主体ともいえる従業員から前向きな関与を引き出せず、逆にエンゲージメントに対してネガティブな印象を与えてしまう懸念に及ぶ。
先ほど見たようにエンゲージメントの定義はさまざまだが、最近増えてきている認識は、個人と組織の関係がより対等になるなか、互いの成長を支援し合う関係性を築けるかが鍵になっており、これをエンゲージメントと呼ぼうとする考え方である。企業経営には、個人と組織の成長のベクトルを一致させていく手腕が求められている。エンゲージメントを高めることが、個人と組織の成長にどうつながっていくのか、従業員としっかり認識を合わせていく必要がある。
人的資本におけるエンゲージメントに関する開示実態と、今後の開示に向けて、自社にとってのエンゲージメントを高める意義を認識合わせすることの重要性を示した。人的資本情報を開示する目的は、直接的に投資を呼び込むだけでなく、市場との対話の機会を増やし、フィードバックを生かして企業価値の向上を図ることにある。何を開示しているかがクリアでなければ意味のあるフィードバックは得られない。また人的資本情報は企業価値向上を担う従業員に対しても重要なメッセージとなる。自社にとってエンゲージメントとは何を意味するのか、それを高めることが企業価値の向上にどう繋がるのか。投資家や従業員と建設的な対話を積み重ねていくことが求められる。
[注1]従業員サーベイの結果。企業によって開示の形式が異なり、平均スコア、肯定的回答の比率、偏差値などあるが、ここでは形式を問わずカウントしている。従業員満足度など、エンゲージメントと同様に従業員の回答結果に基づく開示が一部に見られたが、ここではあえてエンゲージメントと表記している企業に絞ってカウントしている。
[注2]「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書 ~人材版伊藤レポート~」p14 経済産業省 令和2年9月
[注3]「未来人材ビジョン」p33 経済産業省 令和4年5月
サーベイグループ シニアコンサルタント
古井 伸弥
Nobuya Furui
日系・外資系のマーケティング会社で計16年、市場調査と消費者研究に基づく提言を行い、クライアント企業の意思決定を支援する。CSとESの関係性を扱うなかで、社員のモチベーションやリーダーの役割への関心を高め、人と組織の領域にキャリアを移す。2019年「はたらいて、笑おう。」に共感し、パーソル総合研究所に入社。ピープルアナリティクスラボにてHRデータ活用の研究開発、シンクタンク研究員として人的資本情報開示や賃金に関する調査研究に従事。2023年10月より現職。
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人的資本情報開示に関する調査【第2回】~求職者が関心を寄せる人的資本情報とは~
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