公開日 2022/10/12
「人的資本経営」を30年以上にわたって研究してきた内田氏。言葉は根付いていなくとも、「人的資本経営」を体現してきた日本企業は実は多いと語る。ビジネスモデルの歴史を紐解きながら、競争を戦い抜く日本企業の差別化戦略を伺った。
山口大学経済学部 教授 内田 恭彦 氏
1989年慶應義塾大学社会学研究科修士課程修了。その後株式会社リクルート入社。人材関連事業の商品開発・新規事業開発等を行う。2004年神戸大学経営学研究科助教授となり2006年より山口大学経済学部准教授、2008年より現職。2016年神戸大学経営学研究科後期博士課程修了。戦略的人的資源管理および知的資産経営論を専門とする。主著に『日本企業の知的資本マネジメント』(中央経済社)。日本知的資産経営学会副会長。
――「人的資本経営」という概念は30年前の1990年代から存在します。日本企業に根付かなかったこの「人的資本経営」が今、注目されている理由について教えてください。
「人的資本経営」という言葉自体は流通していなくても、一部の日本企業は人的資本経営の「本質」に近いことをやってきたと考えています。日本企業は「人的資本に依存した経営を行ってきた」ということです。日本には根本的に「企業特殊性の高い技術、知識、経験で価値創造を行う」というメカニズムが根付いているように思います。今、注目される理由は「知的資本」(※)の時代が到来したからです。知的資本をつくり出すのは人間ですから、人材に注目するのは当然の流れだと考えます。
※企業価値創造のための資源、未来の収益可能性の源。人材、組織の力、事業を支える外部のパートナーや顧客との良好な関係などの無形な価値を包括的に捉えたもの。
――この30年の間に「人的資本経営を推進してきた日本企業は多い」とのことですが、その理由を詳しく教えてください。
日本企業についてお話しする前に、世界のビジネスモデルの変遷から説明させてください。イギリスで起きた前期産業革命以前の時代 、ビジネスモデルの中心は「交易」でした。ある物を生産している地域では希少性がないため安くしか売れないが、それを遠くの地で高く売り、その差分で利益を生み出すというものです。その時代、必要な人材は航海の度に集められ、航海が終われば解散していました。
19世紀後半からの後期産業革命以降、ビジネスモデルの中心は「製造業」へと変化します。部品から何からすべてを自社で製造し大量生産する「フォード生産システム」のように、社内で特殊な技術を持ち、技術の効率化で利益を生み出していました。会社で人材を雇用する必要性が生まれ、知識と技術のあるエンジニアなどは終身雇用となりました。そして、他社との競争に打ち勝つために「差別化」を図るようになります。
こうした歴史的流れの中で従来の交易型のビジネスモデルを強く継承する「外部から機械を購入し、部品や材料を安く仕入れ、高く売るといったビジネスモデルが生まれます。一方で「人材を長期的に雇用しながら企業内部に特殊な知識、技術を開発・蓄積し差異化の源泉とする」という新たなビジネスモデルが発達しました。後者は企業内部に差異化する装置を持つということです。1980年にマイケル・ポーターが『競争の戦略』で、5フォース・アナリシスや3つの戦略類型(「コスト・リーダーシップ戦略」、「差別化戦略」、「集中戦略」)を提示しましたが、後期産業革命以降の生産性の拡大で市場が飽和していく中、供給側の価格交渉力が低下していたので、彼の効率的な投資先の選択や事業の差別化の判断のためのフレームは時宜を得たものでした。当然内部に差別化の装置を持つ人材を長期に雇用し、企業特殊性を築くビジネスモデルは競争優位を有するものとなりました。
日本はというと、1950年代にQCサークル活動(小集団改善活動)が導入され、ホワイトカラーだけでなくブルーカラーの終身雇用も進みます。その結果、人材の人的資本(知識、知恵、経験)を生かした画期的なアイデアで新たな商品を開発する企業が世界での競争力に打ち勝っていきました。製造だけでなく研究開発などでも同じ手法が用いられ(TQC)、特殊なビジネス、突き抜けたビジネスを行う日本企業が増えていったのです。日本のメーカーが1970年代に発展したのはこのためであり、日本企業の一番の強みであると思います。
――世界と比較して、日本企業が優れていたことを示す事例があれば教えてください。
例えば、富士フイルムです。フイルム技術は大変高度なもので、1990年代は世界に4社しかありませんでした。コダック(アメリカ)、アグファ(ドイツ)、コニカ(日本)、富士フイルムのうち、現存するのは富士フイルムのみ。その背景に日本企業の競争優位性が見えてきます。
コダックに追いつけ追い越せと技術革新を行った富士フイルムは、1985年ごろにはすでに技術力で追い抜き、1995年ごろには売上もほぼ同じだったといわれています。そして、2006年に富士フイルムホールディングスと傘下の富士フイルムの代表取締役社長・CEOに就任した古森重隆氏が大改革を行います。営業出身の古森氏は技術者に対して、「富士フイルムの本当に優れた技術とは何なのか、どう生かせるのか」を言語化するよう伝えたそうです。結果的に酸化還元制御技術、ナノ分散技術、粒子形成技術などが明確になり、スキンケアや再生医療、高機能材料、光学・電子映像といった新しい事業においてそれらが再活用されました。内部に蓄積された「企業特殊性の高い知識、技術、経験」を「新製品・新サービス市場」に応用したことで、デジタル化の波にも負けず、フイルム業界最後の1社として生き残ったのです。
――日本企業は「人的資本経営」に近いものを実施してきたにもかかわらず、「失われた30年」と呼ばれるほど成果に繋がらなかったのは、日本企業が世界と比べて「デジタル化」に遅れをとったことが影響していますか。
デジタル化が進んで、日本の優れたものづくりがなくなったかというと、そのようなことはありません。優れたものづくりの現場ではAIやコンピューターが導入されており、そこに入力される技術や知識は終身雇用の人材が開発したもの、試行錯誤の過程や結果で重要なものとなります。日本特有のアナログなすり合わせ技術やPDCAサイクルなどを生かしたベストなDXの解決策を導こうとしている過程だと思います。
とはいえデジタル化が遅れてしまった原因もあると思います。その一つはデジタルに対する拒否反応です。野中郁次郎先生と竹内広高先生の『知識創造企業』によると、ホンダの「トールボーイ」という車は、「狭くても感覚的に広く感じられる快適な空間とは」を議論していくうちに、皆の暗黙知が「球体」というコンセプトに形式知化され、出来上がったということです。この経験は、形式知中心のオンラインでの議論や数値によるシミュレーションでは困難だと考えらえます。
もう一つの原因は、多くの日本企業がITの技術者を社内で終身雇用するのではなく、外部のSIer(エスアイヤー)に全面的に委託してきたことです。SIerの技術者は汎用性が高く、コストのかからないシステムの構築を望み、企業独自の差別化や戦略を盛り込んだシステムの構築は望まないといった話を聞いたことがあります。トヨタの2021年の統合報告書には、車とさまざまなネットサービスを統合するために、全社で18,000人のIT技術者を擁していることが記されています。モノ作りでも、主戦場がソフト分野に拡がっているのです。今後は、企業の差別化に貢献するIT系の技術者を社内でどれだけ育成できるかが、鍵となりそうです。
――2022年より経済産業省、金融庁、内閣官房が「人的資本経営」に関するガイドラインを明示し始めました。政官主導ともとれる動向をどう受け止めていますか。
特定の人的資本経営の在り方を絶対的に評価すべきものではありません。長い歴史の中で「人的資本経営」を捉え、評価し、「何を行うべきか」から議論することが重要です。気になるのは、バブル崩壊、アジア通貨危機、リーマンショックなどの影響からか、日本の経営者が自信を失い、短期的で確実に利益を確保できる単純なことにのみ答えを求めようとし、それを政府が後ろからサポートするように見えることです。 業績が厳しくなったら、終身雇用を廃止して、リストラで利益を確保しようとか、非正規雇用の比率を高め人件費を抑制していこうということです。短期的に確実に成果の出る施策ばかりを実施していては、日本企業の強みを生かしたイノベーションができず、長期的なグローバル競争から退出しなければならなくなります。「新しい時代のための新しい企業経営を長期的に考えること」が重要ではないでしょうか。
――最後にCHRO、人事部長、人事に携わる人に向けてメッセージをお願いします。
「自社の強みの源泉は何か」、「企業特殊性の高い知識、技術、経験は何か」をきちんと洗い出す必要があります。そして、新たな時代を取り巻く環境を把握し、企業特殊性と組み合わせることで、「どんな方向性に向かって、どんな新しいサービスを提供していくのか」という事業戦略を今一度確認していただきたいです。
また、最先端の技術ばかりに目が行きがちですが、古い技術が企業特殊性になっている場合もあります。2010年代前半ごろ、パナソニックのエアコンがインドで大成功しました。当時、日本価格で20万円台のエアコンをインドの生活環境に合わせて4万円台に作り替えることで、1%も満たなかった市場シェア率を引き伸ばしました。すでに日本では旧式とされる「償却済みの企業特殊な技術」を新興国の新中間層向けの製品・サービスに再活用することで、コスト競争力と品質の両方を備えた「圧倒的に競争力を有するもの」を提供することができる、ということです。 このような戦略は、「古い技術」に詳しいドルシニア層の活用にもつながるでしょう。
さまざまな価値観を持つ人材がいる中で、企業特殊性の高い知識、技術、経験を持ち、高度な判断ができる人材をどのように育てるのかという人材戦略を考えることが、今後必要になると思います。
※文中の内容・肩書等はすべて掲載当時のものです。
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