公開日 2022/08/02
前回のコラム「人的資本の情報開示の在り方 ~無難な開示項目より独自性のある情報開示を~」では、企業の人的資本に関する情報開示の在り方が検討されていく中、何に着目していくべきなのかに関して、株主の中心に位置する投資家の観点、あるいは人的資本経営を推進する政府や経済産業省、金融庁など国内政策の観点で開示範囲を見てきた。
当然ながら人的資本経営は情報開示が目的ではなく、機関投資家など株主のためだけの人的資本経営でもなく、顧客や取引先などさまざまなステークホルダーとの関係性において、自社の人的資本経営が位置付けられることを再認識する重要性を伝えてきた。
本コラムは、それらの関係性を踏まえた上で、自社が事業環境の変化に対応しながら持続的に企業価値を高めていくために、経営戦略と適合的な人材戦略を策定し、その人材戦略を実行に落とし込んでいく担い手となる人事部に焦点を当てたストーリーを展開したい。
先日、東証プライムに上場し、ある分野でグローバル・ニッチトップ企業の人事部長から衝撃的な話を耳にした。「人的資本に関する情報開示の自社の在り方を社長に相談したところ、『そんなの、他社を参考に模倣すればいい』と言われました」
奇しくも日本を代表するグローバル企業のトップの発言である。真意は測りかねるが、これを本音とする企業経営者が他にも日本に存在しているとしたら(そうではないことを信じつつ)、他国と同等に人的資本経営を営むことは困難を極めるであろう。
百歩譲って、「前回のコラム」で言及したように、現段階では金融庁による開示義務項目や内閣官房が提示するガイドライン、グローバルスタンダードとなるISO30414など、多数の情報開示項目が存在するため、これらを眼前にして開示義務項目以外に、何を選択するのかは悩ましいところである。しかし、冒頭に触れたように、人的資本経営は情報開示が目的ではなく、ステークホルダーの期待に応えながら自社が持続的に競争優位を保ちながら成長していくことにある。
そこで重要になるのが、他社にはない、あるいは差別化できる自社固有の競争力を示す、独自性ある情報開示項目である。「日本人は規定演技が得意だが、自由演技は不得手である」というたとえ話がある。自由といわれると何を選択すればよいか戸惑いがちになり、まずは他社の動向を探り、海外の前例を情報収集する動きが機敏となる。
一橋大学大学院の楠木建教授は、「良い模倣が垂直的な動きであるのに対して、悪い模倣は水平的な横滑り」と論じるが、他社の開示項目を参考にすることは構わないとしても、水平的な横滑りの模倣では独自性を失ってしまう。
この「垂直的な動き」に通じる考え方が、「人材版伊藤レポート」*1が提示する一丁目一番地ともいえる「経営戦略と人材戦略を連携させる」ことに、別の意味で似ている。垂直的とは、人材戦略が経営戦略と縦につながっている状態であり、いかにして両者を連動させていくのか、それこそが人的資本経営が意図する最も大きな論点であろう。
人的資本に有効な人事施策のベストプラクティスを横一列に並べて、それを個々に実行していくよりも、両戦略を垂直的に連携できている企業があるとすれば、それを可能としている要因を深く探求する限りにおいては、良い模倣となるであろう。その過程で導き出された情報開示項目であることを前提に参考にすることは、有効な手立てとなる。ちなみに「人材版伊藤レポート2.0」*2では、人的資本経営の実践事例として19社の取り組み概要とポイントを紹介している。
しかし、パーソル総合研究所が上場企業の経営者、人事部長に聞いた「人的資本情報開示に関する実態調査」によれば、「人材戦略が経営戦略と紐づいている」と回答した割合が約59%であり、決して十分とはいえない状況にある。
人材戦略を実現する上でとても重要な要因となるのが、「人事部がどうあるべきか、人事機能の能力をどう整えるのか」ということを意味する「人事戦略」である。人事戦略の意図することは以下となる。
• 人事の役割・位置付けを問い直す
• 経営に資する人事部の組織体制とする
• 人事制度や人事の各機能(採用・配置・能力開発・代謝)を人材戦略に基づいて構築する
また、パーソル総合研究所が人事部管理職向けに実施した調査「人事部大研究」では、自社組織内における人事部の位置付けを聞いたところ、人事部が経営層に近いほど戦略人事が実現できている割合が多いことが分かった。特に、社長直下/取締役会で人事運営を行う企業では、約半数が戦略人事、すなわち人材戦略と経営戦略との紐付けが実現できている。
一方で、人事部の人員が不足であると回答した企業の場合、人事部門と経営層との連携が十分にできていないとするなど、人事部の組織体制の不十分さが垣間見られる。「人材版伊藤レポート」ではCHROの設置・選任と、経営トップ5C(CEO、CSO、CHRO、CFO、CDO)*3との連携を求めているが、上場企業のCHRO設置率は24.1%に留まっている。
他方、人事担当役員の設置率は62.8%となっている。ただし、CHROと人事担当役員との相違が十分に定まっていない中での結果と推測されるため、両者の設置率を比較することにあまり意味を持たない。
いずれにしても、人事部の最高責任者の経営関与度(経営会議に常時参加しており、決定に対する影響力を持っている)が高いほど、「経営戦略に基づいた人事戦略の策定」や「緊密な社内連携」ができているという調査結果からも、「人材版伊藤レポート」が定義するところのCHROの設置・選任は、人的資本経営を推進していく上で、不可欠となってくるであろう。
だからといって、人事部の位置付けを経営ボードに近づける外型的なアプローチだけでは、それに相応したケイパビリティを人事部の組織内に持ち合わせない限り、いずれ機能しなくなる。
調査「人事部大研究」によると実に4割以上の企業が、以下を自社の人事部の課題として挙げた。
• 専門性をもつメンバーの不足
• 企画構想力の低さ
• 人事の人手不足
• 「攻め」よりも「守り」が重視される
これは人事部としてのケイパビリティが、戦略的な「攻め」の人事を実行していく上で質と量の両面で不足していることを示唆している。特に企画構想力は人材戦略を起案したり、経営や事業部門に理解を求めて巻き込んだりする上で欠かせない。企画構想力が不十分であると、情報開示項目を決める際の独自性を打ち出していく力強さに欠け、横並びで無難な項目の羅列に落ち着いてしまうことで、市場からは魅力的な投資対象企業と映らず、ますます競争力の差を広げる悪循環に陥ってしまう。
人事の基本的な機能特性から、どうしてもオペレーショナルな日常業務が存在し、そこに人員不足が重なることによって逼迫した「守り」の人事部を維持させてしまうジレンマが起きている。「まず隗より始めよ」のごとく、人事部の人材や組織のより一層の高度化が、人的資本経営の第一歩かもしれない。
調査「人事部大研究」では、人事情報の一元管理ができている企業は、戦略人事が実現できている傾向が顕著にみられた。一方で、従業員の人事考課・評価や異動履歴といった基本的な情報の一元管理はできているとしても、従業員のキャリア志向や、スキル・強みといった個人特性に関するデータが一元管理されている企業は4割に満たない。これでは人的資本の情報開示を積極的に行うにしても、項目において人材や組織の成長を測るKPIに乏しく、開示するに及ばないことを意味する。
HRテックやピープルアナリティクスの重要性がいわれて久しいが、実態として最低限の人事情報管理に留まる限りにおいて、投資家から投資に足る材料が見出されないと判断され、HRデータ蓄積・利活用の優劣が、投資先としての優勝劣敗につながる原理がますます働いてしまう。
人材戦略を実現するために必要なKPIは何かを、経営戦略実現度のAs ISとTo Beのギャップを明らかにし、必要な組織体制やそれに必要な人材を事業部門と連携しながら人事戦略に落とし込む。これが人的資本経営に至るロードマップである。
人事部の人員不足を認識する企業が6割いることが前述の調査で明らかになっているが、その解消の一つとして人事定型業務をアウトソースする動きは以前からある。給与・報酬計算のアウトソース活用率は34.8%とである一方で、個人のキャリア支援は約15%に留まる。戦略人事が実現できている企業ほど、定型業務のみならず、人事の頭脳的な企画業務についてもアウトソース率が高いことが分かっている。
自社の企画構想力に課題があると認識した場合、採用や育成によって高めていくことは、短期的に容易ではない。キャリアカウンセラーやコンサルティングファームといった外部のスペシャリストを活用することで、戦略人事を前に進めていくと同時に、自社にノウハウを蓄積していく効果もある。
人的資本経営を構築し、推進していく中心となるのは人事部である。人的資本経営を実践していくために、人事部門はこれまで以上に経営ボードや事業部門に近い存在に位置付けていく一方で、HRテックを前提としたKPIの設定や外部の専門性を活かしたアウトソースの見直しといった「攻め」の人事を行う必要がある。そして、人事部員が十分に確保されていない状況下で「攻め」の人事を行うには、「守り」ともいえるオペレーショナルな人事業務を徹底的に外部化するといったメリハリが重要となってくる。
人事部が経営戦略と適合的な人材戦略を策定し、その連動のためやAs ISとTo Beのギャップを埋める施策や人事業務を「選択・集中」することによって、多くの日本企業が人的資本経営を実現することを期待する。
*1 持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書 ~ 人材版伊藤レポート ~
https://www.meti.go.jp/shingikai/economy/kigyo_kachi_kojo/pdf/20200930_1.pdf
*2 人的資本経営の実現に向けた検討会 報告書(人材版伊藤レポート2.0)
https://www.meti.go.jp/policy/economy/jinteki_shihon/pdf/report2.0.pdf
*3 CEO=Chief Executive Officer、CSO= Chief Strategy Officer、CHRO=Chief Human Resource Officer、CFO= Chief Financial Officer、CDO=Chief Digital Officer
シンクタンク本部
上席主任研究員
佐々木 聡
Satoshi Sasaki
株式会社リクルート入社後、人事考課制度、マネジメント強化、組織変革に関するコンサルテーション、HCMに関する新規事業に携わった後、株式会社ヘイ コンサルティング グループ(現:コーン・フェリー)において次世代リーダー選抜、育成やメソッド開発を中心に人材開発領域ビジネスの事業責任者を経て、2013年7月より、パーソル総合研究所 執行役員 コンサルティング事業本部 本部長を務める。2020年4月より現職。また立教大学大学院 客員教授としても活動。
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