公開日 2023/10/05
人的資本の「戦略」と「指標及び目標」を有価証券報告書に記載することが、2023年3月期決算から求められるようになった。有価証券報告書の提出は事業年度の終了から3カ月以内とされていることから、最初に義務化対象となった企業は2023年6月に提出期限を迎えた。これ以降も、4月期決算、5月期決算を迎えた企業の有価証券報告書が提出されている。他社動向への関心の高さを鑑みると、こうした企業の人的資本の記載内容については各社で検討が進められ、次期の開示に活かされるだろう。一方、海外では先を見据えた開示枠組みの検討が進んでいる。
そこで、本コラムでは海外動向の確認を通して、人的資本情報開示の見通しについて考えてみたい。
海外動向の確認の前に、今回の有価証券報告書の改正について簡単に振り返りたい。今回の人的資本情報開示の基礎となったのが、2022年3月に開かれた第7回金融審議会ディスクロージャーワーキング・グループでの議論である[注1]。当時の資料を見ると、国際サステナビリティ基準審議会(ISSB)のサステナビリティ基準との整合性と国内の政策的課題が意識されていたことが分かる。そのため、サステナビリティの開示フレームワークとしては当時議論が進められていたISSBと同様の「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標及び目標」の4項目が採用される一方、人的資本についてはこのうち「戦略」と「指標及び目標」について先行して義務とする方向で議論が進められた。
その後の2023年1月には有価証券報告書への人的資本情報の記載が決められた。これによって、2023年3月期決算から、人的資本の「戦略」と「指標及び目標」の記載が必要となった。つまり、人的資本については「ガバナンス」と「リスク管理」の義務化は見送られた。その一方で、今回の改正に際して行われたパブリックコメントには、随所に整合性への意識が見られ、ISSBの語が文中におよそ50回登場していた[注2]。
パブリックコメントで多々言及のあったISSBは、2023年6月にサステナビリティ関連財務情報開示(S1)、気候関連開示(S2)という2つの基準を公表した。サステナビリティ情報全般について定めるS1と気候関連情報について定めるS2のいずれにおいても、「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標及び目標」の枠組みでの開示を求めている。これらを基に、サステナビリティ基準委員会(SSBJ)が、日本版S1と日本版S2基準の策定を行っている。現時点では、2026年3月期の有価証券報告書からの適用が視野に入れられている[注3]。
また、ISSBは今後のリサーチプロジェクトについて意見を募るため、2023年9月までコメントを募集していた。ここでは人権など他のテーマとあわせて、人的資本も挙げられていた。そのため、これを契機に人的資本情報開示に関する議論への注目度はさらに高まっていくものと考えられる。
ISSBが用いた「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標及び目標」の枠組みは、気候関連財務情報開示タスクフォース(TCFD)まで遡ることができる。このフレームワークは、自然関連財務情報開示タスクフォース(TNFD)にも引き継がれた。TCFDとTNFDは、ESGでいうところの「E(環境)」に焦点を絞った開示枠組みであり、国際的なスタンダードとして認識されている。TCFDやTNFDに基づいた開示例は、各国の大手企業でよく見られるようになった。日本の企業においても、統合報告書や有価証券報告書などの媒体を通した開示が広がっている。
しかし、昨今の世界的な問題意識、また資本市場の関心に後押しされるように、ESGの「S(社会)」に対応した開示枠組みの検討も進んでいる。不平等関連財務情報タスクフォース(TIFD)と社会関連財務情報開示タスクフォース(TSFD)である。不平等と社会の観点からそれぞれ開示枠組みを検討中だった2団体は、2023年4月に統合を発表した。また、2023年第4四半期から2024年第1四半期に最初の開示基準案を公表予定であることが併せて発表されていた。
その後、2023年8月には不平等・社会関連財務情報開示タスクフォース(TISFD)としての見通しが公表された。TISFDは、TCFDやTNFDとの相互運用性をサポートするとされており、開示枠組みが継承される可能性が高いと考えられる。
ただし、TISFDは人的資本だけを対象としているわけではない点に留意が必要である。人的資本情報として一般的に開示される内容と比べると、不平等や社会が対象とする開示範囲はより広くなることが見込まれる。例えば、不平等と聞いてまず思い浮かべるのは、2023年3月期から有価証券報告書への記載が求められるようになった男女の賃金の差異だろう。一方で、英米に目を移すと、不平等の指標として報酬比率(pay ratio)の開示が求められていることが特徴的だ。報酬比率は、CEOの報酬と従業員の報酬の中央値の比率のことで、当該企業の報酬政策を表している。所得の不平等を背景に、アメリカとイギリスでは既に開示が求められているもので、日本においても度々その活用が提案されてきた[注4]。
また、人的資本情報開示は多くの場合、グループ会社を含めた自社雇用の従業員を対象にした情報の収集と公表に焦点を当てる。他方、不平等や社会の観点からは、バリューチェーン上の労働者も対象に入ると考えられ、ビジネスと人権との関連性の認識や包括的な開示の推進が一層重要になってくると考えられる。実際に、上述のISSBに対しては、24の機関投資家が人的資本と人権を統合的に捉えた上で、優先的に検討するように公開書簡を送っている[注5]。最新の有価証券報告書においても、人的資本と併せてビジネスと人権について記載する例が見られたが、今後はこうした開示がスタンダードとなる可能性がある。
ここまで見てきたように、「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標及び目標」の枠組みは、ISSB、TCFD、TNFDで用いられている。そして、これは開示枠組みのスタンダードとして受け入れられてきた。この枠組みをより広い視点から捉えることも、より詳細に争点を探ることもできるが、次のように理解すると簡便だろう。
ガバナンス:リスクと機会について、取締役会がどのような体制で検討、監督、推進し、
戦略:実際に生じている影響や潜在的な影響について、どのように対処し、
リスク管理:リスクの特定・評価をどのような手続きで行い、
指標及び目標:これらのリスクや機会について、どのような尺度を用い、進捗を管理するか
既に触れたように、有価証券報告書の2023年の改正では上記のうち、人的資本の「ガバナンス」と「リスク管理」の記載の義務化が見送られている。しかし、ISSBなど国際的な動向を鑑みれば、今後、人的資本の「ガバナンス」と「リスク管理」を併せて記載することがスタンダードになっていくと考えるべきだ。また、こうした枠組みでの開示はTCFDやTNFDなどの枠組みに慣れている機関投資家に対して特に有効だと考えられ、早期対応が望ましい。実際に、2022年8月に内閣官房から公表された「人的資本可視化指針」においても、TCFDを参照しつつ、「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標及び目標」の「4つの要素に沿った開示を検討することが期待される」と整理されていた[注6]。
こうした動きの影響を早く、そして強く受けるのは、どのような企業だろうか。上記の動向は、特に海外機関投資家を中心にもたらされている。そのため、海外機関投資家が関心を寄せる企業は特に影響を受けやすいと考えられる。これを念頭に置くと、2つの指数に着目することが有益だろう。
まず、TOPIX500である。日本にはおよそ3,800社の上場企業が存在している。TOPIX500は、そのうち時価総額と流動性の高い500銘柄で構成されている。日本最大手で構成される同指数に名を連ねる企業に対する海外機関投資家の注目度は高く、こうした動向に敏感であると考えられる。そのため、人的資本情報開示のベンチマークとして理想的な企業群と考えられる。
もうひとつは、2023年5月に公表されたJPXプライム150指数である。これは、エクイティスプレッドと株価純資産倍率(Price Book-value Ratio: PBR)の2つの基準から選ばれた企業群である。エクイティスプレッドは、自己資本利益率(Return On Equity: ROE)から株主資本コストを引いて算出される値で、投資家の期待リターンを超える収益を生み出しているかによって算出される。また、PBRは、企業の株価と1株あたりの純資産の比率で、1倍を超えていれば株価が資産価値以上になっていることを示す。いずれも企業の価値創造を考える上で重要な指標である。そのため、これらの指標をもとに銘柄が選択されたJPXプライム150指数は、「日本を代表する価値創造企業を150社パッケージにした、優れた企業経営のお手本みたいなインデックス」とも形容される[注7]。JPXプライム150指数に着目することで、日本の価値創造企業の人的資本情報開示とはどのようなものか、理解を深めることができると考えられる。
ここまで本コラムでは、海外の動向を基に人的資本情報開示のフレームワークについて考えてきた。その内容をまとめると、以下のポイントに整理できる。
① ISSBやTCFD、TNFD、TISFDといった国際的な動向から、「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標及び目標」の開示枠組みが、今後も引き続きスタンダードとして認識されると考えられる。
② そのため、有価証券報告書への記載の義務化は見送られた人的資本の「ガバナンス」と「リスク管理」についても、開示の必要性を強く認識する必要がある。
③ また、自社の人的資本情報開示の内容、そして人的資本経営の在り方についても、報酬比率やビジネスと人権など海外の動向を考慮した積極的な見直しが望まれる。
上記のような海外の動向を鑑みて、パーソル総合研究所では、「ガバナンス」「戦略」「リスク管理」「指標及び目標」について、いくつかのポイントに絞って発信していく。今後公表されるコラムもご覧頂ければと思う。
[注1]金融審議会ディスクロージャーワーキング・グループ(令和3年度)「事務局説明資料」(https://www.fsa.go.jp/singi/singi_kinyu/disclose_wg/siryou/20220324/01.pdf)
[注2]金融庁「コメントの概要及びコメントに対する金融庁の考え方(企業内容等の開示に関する内閣府令の一部を改正する内閣府令等)」(https://www.fsa.go.jp/news/r4/sonota/20230131/01.pdf)
[注3]SSBJ「現在開発中のサステナビリティ開示基準に関する今後の計画」( https://www.asb.or.jp/jp/wp-content/uploads/2023_0803_ssbj.pdf)
[注4]枝侑加「欧米の役員報酬プラクティスの日本活用可能性を探る①」(https://www.mercer.com/ja-jp/insights/consultant-column/888/)。今井昭仁「報酬比率の開示の効果的な利用」(https://www.pronexus.co.jp/home/souken/common/pdf/200227_report14.pdf)
[注5]Work Force Disclosure Initiative “Investor group calls on the ISSB to embark on human rights and human capital concurrently, and as a priority”(https://cdn2.assets-servd.host/shareaction-api/production/resources/reports/2023_WDI_Investor-RFI-open-letter.pdf)
[注6]内閣官房「人的資本可視化指針」(https://www.cas.go.jp/jp/houdou/pdf/20220830shiryou1.pdf)
[注7]広木隆「古今東西・前代未聞 ‐ 日本「株式市場」文化私感」(https://media.monex.co.jp/articles/-/21755)
シンクタンク本部
研究員
今井 昭仁
Akihito Imai
London School of Economics and Political Science 修了後、日本学術振興会特別研究員、青山学院大学大学院国際マネジメント研究科助手を経て、2022年入社。これまでに会社の目的や経営者の報酬など、コーポレートガバナンスに関する論文を多数執筆。
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