公開日 2024/11/06
所得税や社会保険料の負担を避けるために年収額を調整することは、就業調整と呼ばれ、パートタイム就業者の労働時間減少の一因となってきた。労働力不足を背景に、就業調整と関連する制度やその改正についての議論に対する注目度も高い。今後、就業調整の影響はどのようなものとなるのだろうか。また、企業ができる就業調整対策はあるのだろうか。本コラムでは、これらについて考えてみたい。
就業調整は、年収の壁によって生じている。年収の壁はいくつかの基準があり、所得税の支払いに基づく103万円の壁、配偶者の扶養から外れ社会保険への加入が必要になる106万円や130万円の壁がある。これらを総称して年収の壁と呼ばれている。
年収の壁の影響は大きく、各種データから試算すると就業調整をするパートタイム就業者は、2023年時点で464万人、今後もこの傾向が続いた場合には2035年で502万人に上るとみられる。この時、就業調整がなければさらに働いているのではないか、という疑問が浮かび上がる。
パーソル総合研究所と中央大学の共同研究、「労働市場の未来推計2035」では、2035年時点の就業調整緩和のインパクトを試算している。そのインパクトの試算にあたって重要なことは、パートタイム就業者が2035年時点で何時間働く見込みかである。パートタイム就業者の労働時間は、過去数十年にわたって減少の一途をたどってきた[図表1]。この減少傾向が今後も続くと仮定すると、2035年のパートタイム就業者の月間労働時間は57.7時間にまで短くなる見込みだ。
図表1:パートタイム就業者の月間労働時間の推移
出所:厚生労働省「毎月勤労統計調査」を基にパーソル総合研究所作成
それでは、就業調整が緩和された場合、パートタイム就業者の労働時間は今後どのような推移を見せるだろうか。「労働市場の未来推計2035」 では、2023年同様の労働時間が維持された場合の「労働時間一定」と、2023年よりも労働時間が増加した場合の「労働時間増加」の2つの仮定を基にシナリオを設定し、そのインパクトを試算している[図表2]。
図表2:パートタイム就業者の潜在的な労働力
出所:パーソル総合研究所・中央大学「労働市場の未来推計2035」
まず、2023年の労働時間が今後も維持される「労働時間一定」のシナリオでは、2023年のパートタイム就業者の月間労働時間の79.3時間が、2035年においても維持されるものとしている。このシナリオでは、1日当たり追加で357万時間の労働力増が期待できる。この1日当たり357万時間という値は、「標準シナリオ」での労働力不足1日当たり1775万時間のおよそ20%にあたる。つまり、就業調整の影響が緩和し、仮に2023年の労働時間が維持された場合、労働力不足は20%程度緩和することになり、小さくないインパクトであることが分かる。
もうひとつは、今後労働時間が増加し、2035年時点でパートタイム就業者の月間労働時間が89.1時間になる「労働時間増加」のシナリオである。こちらは前述の「労働時間一定」のシナリオよりもさらにインパクトが大きく、追加で得られる労働力は1日当たり518万時間となっている。これは2035年の労働力不足の約30%が緩和することを意味している。
こうした就業調整の影響の緩和を意図して導入されたのが、厚生労働省による「年収の壁・支援強化パッケージ」である。しかし、パッケージ導入の前後で、就業調整を行う割合に大きな変化は見られていない※1。そのため現時点で、過大な期待を寄せることは難しいが、現在も労働力不足は進行しており、何らかの手を打つ必要に迫られているのではないだろうか。実際に、小売、飲食、サービスを中心に、年々シフトが組みにくくなるといった声を耳にすることが少なくない。こうした状況下において、企業にできることはあるだろうか。
この点を考えるためにその要因へと遡ってみると、就業調整が生じるのは、103万円や106万円、130万円といった基準で税金や社会保険の負担が生じ、手取り額に影響するからである。つまり、手取り額を効率的に最大化したいというパートタイム就業者の動機がそこにある。他方で、給与が一定よりも高ければ、税金や社会保険を負担してでも、さらに働くことで手取り額の最大化を試みることも考えられる。
この時に問題となるのが、現在の給与よりもどの程度高ければ、パートタイム就業者が年収の壁を越えて働くようになるかだ。これを実際に推定した研究を見てみると、パートタイム就業者が就業調整を行わなくなる、つまり壁越えのためには、時給ベースで約30%の賃上げが必要とされている※2。
パートタイム就業者の時給は、最低賃金を目安に設定されていることが少なくない。そこで直近の最低賃金を見てみると、2024年10月に全国加重平均で1,055円となった※3。そのため、これの30%増として考えると、壁越えのラインは1,372円となる。最低賃金が1,163円となった東京都であれば、壁越えの目安金額は1,512円だ。もちろん、最低賃金とは異なる時給を設定している場合、その値から壁越えの目途となる金額を算出することになる。また、実際にかかるコストという観点で考えると、この壁越えのための30%の賃上げ分だけではなく、社会保険の企業負担分も必要となってくる※4。
上記のように考えると、壁越えにかかるコストが過大であるようにも思われる。しかし、壁越えに伴う賃上げのメリットは少なくない。特に大きなものは、多くの企業が最低賃金を目安に時給を設定する中、より高い時給を提示することで人材確保に大きな優位性を得られることだ。近隣企業に比べてより高い時給を提示することで人材確保に大きな優位性を示した近年の例としては、外資の半導体工場や会員制小売りチェーンなどがある。こうした企業は、人件費を可能な限り抑えることよりも、人材を確保し、継続的に雇用することによるスキルの蓄積、生産性の向上を見込むことができる。高い水準の時給を提示した企業は、先行者として地域の中でも比較的優秀な人材の囲い込みに繋げやすい。加えて、近隣企業が追随して一定程度の賃上げをした時でさえも、先行者としてのポジティブなイメージは失われにくい。したがって、近隣企業に先行して検討・実行に移すことの重要性は高い。
これらに加えて、メリットとしてフルタイム従業員への波及効果も見込むことができる。例えば、壁越えによってシフトが埋まりやすくなれば、それまでその穴を埋めることで生じていた残業時間の削減に繋がる。残業時間の削減は、バーンアウトリスクの軽減や、特に昨今のワークライフバランス重視の中にあっては定着率の向上も見込むことができるだろう。パートタイム就業者の賃上げを単にコストと捉えるのではなく、これらのメリットを含め総合的に勘案することが求められる。
これまでパートタイム就業者を雇用する多くの企業は、人件費を抑えることに焦点をあて、採用難を甘受してきたように思われる。しかし、上述のように、人件費負担は増えるが、人材採用・確保の競争力を高めるといった方針への転換も検討の余地は大きいのではないのだろうか。
本コラムでは、パーソル総合研究所と中央大学の共同研究「労働市場の未来推計2035」 におけるパートタイム就業者の就業調整緩和によるインパクトの試算結果を見ることで、まず、就業調整がもたらす未来の労働力不足を確認した。その上で、政策動向にかかわらず企業ができることとして、年収の壁越えについて検討してきた。壁越えに求められる賃上げは、時給ベースでおよそ30%であり、そのコストは小さくない。しかし、パートタイム就業者の確保や継続雇用によるスキルアップ、企業イメージの向上など、メリットも十分に考えられる。
今後、労働力不足が深刻化する中で、何の変化も起こせなければ、自社をとりまく事態は一層悪化するばかりだ。こうした状況を避けるためには、年収の壁越えのメリットとそのコストについて冷静に検討することが求められる。
※1 野村総合研究所 (2024). 「年収の壁」を意識して年収を一定額以下に抑える有配偶パート女性の割合は約6割で、2年前と変わらず 野村総合研究所 Retrieved October 11, 2024, from https://www.nri.com/jp/news/newsrelease/lst/2024/cc/0918_1
※2 永瀬 伸子 (2018). 非正規雇用と正規雇用の格差─女性・若年の人的資本拡充のための施策について─ 日本労働研究雑誌, 60, 19-38.
※3 厚生労働省 (2024). 地域別最低賃金の全国一覧 厚生労働省 Retrieved October 11, 2024, from
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/minimumichiran/index.html
※4 なお、労働力確保の方法として近年拡大するスキマバイトの基本的なサービス利用料は、給与の30%程度が一般的だ。例えば、時給1200円で3時間の場合、給与の3600円に加えて、その30%のサービス利用料1080円が必要となり、合計4680円となる。これと現在時給1200円で働くパートタイム就業者を30%の賃上げし、3時間働くことを考えると、1200円×30%賃上げ×3時間で、こちらも4680円必要となる。このように時給が同じ場合、30%のサービス利用料が必要なスキマバイトと、30%の賃上げとの間に生じるコストの主な差は、社会保険の企業負担分となるだろう。この企業負担分を、人材の定着によるスキルの蓄積や生産性の向上として受け入れるかが争点となってくるはずだ。
※このテキストは生成AIによるものです。
就業調整
就業調整とは所得税や社会保険料の負担を避けるために年収額を調整することを指し、パートタイム就業者の労働時間減少の一因となっている。労働力不足の背景でその影響が注目されている。
年収の壁・支援強化パッケージ
年収の壁・支援強化パッケージとは、短時間労働者が「年収の壁」を意識せず働くことができる環境づくりを支援するために導入された政策。しかし、政策導入後の2024年現在も就業調整を行う割合は大きな変化を見せていない。
シンクタンク本部
研究員
今井 昭仁
Akihito Imai
London School of Economics and Political Science 修了後、日本学術振興会特別研究員、青山学院大学大学院国際マネジメント研究科助手を経て、2022年入社。これまでに会社の目的や経営者の報酬など、コーポレートガバナンスに関する論文を多数執筆。
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