公開日 2018/11/12
働き方改革関連法案の成立に前後して、長時間労働を是正する自発的な動きが、民間企業においても広がっている。本コラムでは、以下の3回にわたって、働き方改革について検証していきたい。
「働き方改革の影響 Vol.1
労働時間の短縮は幸福度を高めるか」では、主観的変数を分析するとき、個人間での比較可能性を担保する方法として注目を集めているアンカリング・ヴィネットという手法を用いて、仕事時間の及ぼす生活満足度への影響について検証する。その時、男女間での満足度の違いにも注目している。
「働き方改革の影響
Vol.2 働き方改革の意図せざる結果」では、労働時間を意図的に短くするとどのような影響が経済に現われるのかを考察する。
「働き方改革の影響 Vol.3
経営方針を浸透させ労働生産性を高める」では、働き方改革の本丸である「労働生産性を高める」という目的において重要な役割を果たすと考えられる「経営方針の従業員への周知」というテーマについて論証する。
さて、以下では、長時間労働を規制する根拠はどこにあるのかといったテーマから検証を始めたい。
そもそも、長時間労働を規制することの根拠は何だろうか?最も望ましい姿は、各人が、各人の置かれた状況を基に、各人にとって最適な時間を労働に振り分けることであろう。政府に上限を設定されることは、本来望ましくないはずである。
しかしながら、こうした議論は、自分以外の人々に働く時間の決定について全く影響されることのない、特殊な状況にある人々についてしかあてはまらない。
上司や会社に長時間労働を強いられている人はもちろんだが、自発的に長時間労働をしている人であっても、規制が必要な場合がある。ワーカホリック状態に陥り、精神についての治療が必要な人だけでなく、全く合理的で健康な人であっても、規制が必要となる場合がある。それを、Akerlof(1982)の理論モデルを下敷きにして考えてみたい。
資本主義の世の中では、人には競争相手がたくさんいる。企業はライバル企業と競争を繰り広げている。巨額プロジェクトのコンペのプレゼンが近づくとき、ライバル企業に負けまいと長時間労働を行うことは自然なことだろう。もうここらで準備はいいかと思っても、競争相手は今頃入念な準備をしているのではないかとの考えが頭をよぎれば、労働時間はさらに伸びることになる。また、競争相手は社内にもいる。同期の中で一選抜となるためには、長時間労働に勤しみ成果を上げつつ、会社への忠誠心をアピールすることが出世につながる。これらのような場合、たとえ労働時間を誰に強制されることなく、「自分で」決めているとしても、本当に望ましいはずの労働時間をはるかに上回って働くことになってしまいがちだ。もしこのとき、誰か第三者が現れて、本来最適な水準である労働時間を上限とすると決め、競争の参加者全員に守らせることができれば、全員の効用水準を改善することができるだろう(Akerlof(1982))。
このような場合、政府が介入することで全員の効用は高まりうる。ただし重要なことは、競争の参加者全員が上限の約束を守る、ということが担保されていなければならない、ということだ。抜け駆けする人がいる限り、結局長時間働くことが最適な選択になってしまう。このような構図は、囚人のジレンマと同型だ。
しかしながら、政府の規制は外国の企業には及ばない。そして、現代の競争は、グローバルに行われている。特に、高い付加価値を生み出すような産業こそ、グローバルな競争にさらされているといってよい。例えば、日本経済の屋台骨のような存在である自動車産業である。自動運転技術をめぐる熾烈な開発競争が世界レベルで行われているときに、自動車産業の開発担当の人々に対して、労働時間の上限を押し付けることは果たして日本経済にとって正しい政策と言えるのだろうか?高い付加価値を生む、グローバルな競争にさらされている産業で働く高度な専門技術を持った人材については、こうした規制の適用外とすべきだろう。高度プロフェッショナル制度の存在意義は、こうした点に求められる。
高い付加価値を生む産業で働く人々の収入は高く、実質的な流動性も高い。無理な長時間労働を強いられるようなことになれば転職が生じるので、働かされすぎ、というような問題も生じにくいだろう。
近年、長時間労働に関する様々な話題がマスコミをにぎわせてきた。また、女性人材活用の必要性が高まっていることからも、いわゆる働き方改革関連法案が成立する以前から、多くの企業で残業時間の管理の厳格化が進んできた。
残業時間の管理の厳格化は、労働時間の短縮をもたらす。それは、先ほどのAkerlof(1982)の理論が示唆するように、人々をより幸福にするのだろうか。筆者は、株式会社パーソル総合研究所から研究資金の提供を受けて、2017年に、全国の働く男女1002人を対象としたアンケート調査(※1)を実施した(以後、今回調査と呼ぶ)。
そのデータを用いて、労働時間が生活満足度に及ぼす影響を検証したい。
(※1)年齢は20歳から64歳。性別・地域
・既婚か未婚か、という層化を行った。生産可能人口における、総労働力人口数に基づき、各層への比例割り当てを行った。本調査は、インターネット調査会社により実施された。
生活満足度とは、「現時点で、あなたの生活全般に関する満足度はどれぐらいですか」、という問いに対して、「満足している」「まあ満足している」「どちらともいえない」「どちらかといえば不満である」「不満である」の五段階の選択肢のうち、一つを選んでもらったものである。労働時間が長くなれば長くなるほど、この満足度のレベルが低下していくのかどうかについて、検証することになる。今までに先進国で行われた膨大な研究のほぼすべてで、労働時間が長くなると、生活満足度に負の影響のあることが確認されたといってよいだろう。したがって、収入のレベルが下がらない限り、労働時間を短くすることで、生活満足度は高まることになる。
しかしながら、こうした主観的な変数を用いた分析には、根強い疑問の声があることも確かである。つまり、本来個人間で比較できないものを比較しているのではないか、という批判である。
例えば、主観的健康感という指標がある。主観的に見て、現在の自分の健康度を評価してもらったものである。主観的健康感の地域別の値を調査し、主観的健康感の値が低い地域には多くの資金を投入し、その地域の健康を促進する、というような政策立案の基礎とされたりする。このようなことは、現在も、日本を含めた先進国で多く行われていることである。こうした主観的健康度という指標について、アマルティア・センは、概略次のように述べている「様々な客観的な諸指標からみて、同程度の健康度であると評価できる二人のインド人がいるとする。一人のインド人は、インドの中でも非常に貧しく、衛生環境の悪い地域に育ったとする。そうした地域では、不健康であることが当たり前であるので、多少病気で健康を害していても、自分のことをそれほど不健康だとは評価しない。その一方で、富裕な地域に育った者は、健康な生活を送ることが当然であり、ちょっとの病気でも自分の健康状態を低く評価することになる。この二人に、主観的な健康度を報告させた場合、例え同じ健康水準であったとしても、主観的な健康水準は同じにならない可能性が高い。つまり、貧しい地域に育った人の健康度は高く、富裕な地域に育った人の健康度は低く出がちだ。主観的健康度の水準を基準に資金の投入を決めると、貧しい地域への政策関連の拠出額は過剰に低い水準となってしまうのだ」。
この事例からわかることは、主観的変数を個人間で比較する場合、各個人の中にある「基準」を揃える必要がある、ということである。先ほどの例で言えば、貧しい地域に育った人の場合、自分が健康であるかどうかを判断する基準のレベルが低い。逆に、富裕な地域に育った人の場合、その基準のレベルが高い。基準のレベルが低いと、その基準を容易に上回ることができるので、主観的健康度は高くなりがちになる。こうした基準を揃える方法として、近年注目が高まっている統計的手法が、アンカリング・ヴィネット(anchoring vignettes)である。
ヴィネットという言葉は、芝居の一場面などを意味している。アンカリング・ヴィネットの手法においては、ヴィネットは、架空の人物の置かれた状況を表す言葉になる。例えば、インド人のラジェッシュ氏という人がいるとする。そして、ラジェッシュ氏の健康状態を記述する:
「ラジェッシュは、ケガの痛みに日々苦しんでいる。50メートルほどならば人の介助なしに歩けるが、階段の上り下りには非常に苦労をする、etc.・・・」
このように、ラジェッシュ氏の健康状態を記述するのである。そこで、先ほどの例に登場した、インド人二人に、「もし、あなたがこのラジェッシュ氏だったとしたら、このラジェッシュ氏の主観的な健康度はどれぐらいになりますか」、と質問するのである。このとき、このインド人二人は、共通の、同じ健康度の人間(ラジェッシュ氏)について評価していることに注意されたい。もし、貧しい地域に育った人がラジェッシュ氏の健康度を高く評価し、富裕な地域に育った人が低く評価した場合、その評価の差は、二人の「基準」の差から生じているといえるだろう。この情報を利用して、二人の異なる基準を揃える。そして、彼ら自身の主観的評価を修正するのである。こうした作業により、個人間で異なる基準レベルを揃えることで、個人間での、主観的健康度の比較可能性が担保されることになるのである。
この手法を最初に用いたのが、King et al.(2004)である。中国人とメキシコ人について、政治の意思決定にどれだけ自分の声が反映されるか、という調査を行ったとき、圧倒的に中国人のほうが自分の声は政治に反映されている、と答えた率が高かった。しかしながら、直感的にこれはおかしな結果であるといえよう。曲がりなりにもメキシコは選挙の行われる民主主義国家であるからである。そこで、アンカリング・ヴィネットの手法を用いて推計結果を修正したところ、今度はメキシコ人のほうが政治に自分の声を反映させることができている、と考えていることが示されたのである。
このように、アンカリング・ヴィネットの発想は実に興味深い。しかしながら、幸福度や主観的健康度、仕事満足度など、主観的変数は莫大な数の論文やレポートに使用され、経営上の判断資料としても用いられ続けているにもかかわらず、その使用数が爆発的に伸びているとまでは言い難いものがある。その背景には、この手法を用いるうえでクリアしなければならないと(現状では)されている統計学的基準が厳しすぎて、なかなかクリアできない、という事情があるように思われる(※2)
(※2)具体的には、Response
Consistency(以下、RC。自分への評価とヴィネットへの評価が同じ基準でなされていること)及び、Vignette
Equivalence(以下、VE。ヴィネットの捉え方が皆同じであること)の条件を満たしていなければならない。本コラムで行った分析については、計算量があまりに膨大となるためにVEテストを実施できなかった。また、客観的指標がないため、RCテストは実施できなかった。これらは今後の課題としたい。これらのテストの詳細については、d'Uva
et al.(2011)を参照されたい。
さて、このアンカリング・ヴィネットを用いた、試験的な分析を行ってみよう。分析対象は生活満足度である。今回調査で用いたヴィネットは、以下の通りである。
田中さんは、職場では頼られる存在です。仕事もバリバリこなし、自分の能力を十分に活かして仕事をしていると感じています。また、今まで順調に昇進してきたことに満足しています。家庭では子供にも恵まれ、家族円満に暮らしています。配偶者との家事の分担もうまくいっていると感じ、育児にも参加し、夫婦仲も順調です。
加藤さんは、言われた仕事を着実にこなしますが、それ以上の仕事への意欲は特にありません。一方で、育児や家事には積極的に取り組み、家族の暮らしが充実するように日々色々と考え、試してみたりしています。
鈴木さんは、仕事に没頭しています。家事や育児は配偶者にほとんどまかせっきりです。帰宅はだいたい深夜になり、休日も疲れていて家族と出かけたりすることは少ないです。
木村さんは、仕事に対して情熱が全くありません。職場では、ただ、勤務時間が終わることを待っているだけのような状態です。一方で、家事を積極的にこなすこともせず、しばしば、適当な理由をつけて育児や家事をさぼっています。
堀内さんは、仕事も家庭も大事にしたいと考えていますが、職場の人々からは家庭・プライベートを重視する人間と思われる一方、家族からは仕事を重視していると思われ、どちらもうまくいっていない状態です。
言うまでもないことだが、ヴィネットの人物名は実在の方々と一切の関連はなく、筆者は木村さんや堀内さんに何の恨みもない。該当する方はお気を悪くされないようにしていただきたい。ヴィネットについては、仕事と家庭の両立の度合いについて作成した。両者は通常トレード・オフ関係にあることが多いと思われるが、そうした対立を乗り越え、両者を成立させている人を田中さんとし、板挟みになっている堀内さん等のヴィネットを作成した。
つまり、両立の度合いが高い順に上から並ぶように、ヴィネットを作成した。両立している人はどのような時間配分を行っているのかなどについては、今後論文等で発表していきたい。本人とこれらのヴィネットの人々に対する主観的な評価値の平均値は、以下の図1に示されたとおりである。
図1 本人とヴィネットの生活満足度
n: 男性 301 女性 701
出典:今回調査により得られたデータより、著者作成
縦軸のポイントは現時点での生活全般に対しての満足度を、満足している=5 まあ満足している=4 どちらとも言えない=3 どちらかと言えば不満である=2 不満である=1 とし、自分の状況および、自分が各ヴィネットの状況であると想定した場合の満足度の平均
これらの主観的評価の情報を用いて、労働時間などが生活満足度に与える影響について検証したい。特に注目するポイントは、男女間での格差である。先進諸国で行われたほとんど全てといってよい既存調査において、幸福度や生活満足度、仕事満足度といった主観的変数について、女性のほうが男性よりも高い満足度を報告することが知られている。これは、特に仕事満足度については、女性の置かれた状況を考えると奇妙な結果であるといえよう。
女性のほうが高い生活満足度、幸福度を報告する理由として、今まで指摘されてきたものは大別して以下の二つになる。
第一に、女性と男性とで、時間の配分が異なる、ということである。女性は男性と異なり、幸福度を高めるような様々な諸活動(友人との社交や趣味、習い事など)に多くの時間を配分しており、それが生活満足度を高めている、という説である(説①)。
第二に、男女間で、期待の水準が異なる、という可能性である。先ほどから指摘しているように、自分の心の中にある基準を超えているかどうかで、主観的変数の評価値は決まってくると考えられる。女性の場合は、それほど多くを期待できない状況に長らくおかれてきたため、自分の中の基準が低くなりがちである。そうなると、主観的評価も高く出る傾向があるといえよう(説②)。
果たして、どちらの説が正しいのだろうか。平日、どのような活動に時間を配分しているのか、というデータを用いて、説①の妥当性について検証し、アンカリング・ヴィネット分析を行い、説②の妥当性について検証してみよう。
この結果を示したものが、表1である。
列(1)と列(2)は、伝統的な手法である、順序プロビットによる推計結果を表している。列(1)は、平日の時間配分に関するデータを含まずに、推計した結果である。列(2)は、平日の時間配分に関するデータを含んで、推計した結果である。列(1)において、女性ダミー(アンケートで性別を女性と答えた人を表す)は統計的に1%水準で有意である。列(2)において、女性ダミーの有意性が失われていた場合、説①の説明力が非常に高いと考えられる。結果を見ると、有意水準に若干の低下がみられるものの、ほぼ変化はない。つまり、説①の説明力は限られたものと言えそうだ。次に、アンカリング・ヴィネット分析を行った結果が、列(3)である。女性ダミーの有意性は失われている。つまり、期待水準を調整したことで、男女間の格差は消えてしまったことになると考えられ、説②の説明力は非常に高いと考えられる。
さて、仕事時間の影響を見てみると、生活満足度へ有意な影響を及ぼしていない。一方で、睡眠時間の長さが、生活満足度を高めていることがわかる。つまり、労働時間が長くなることの負の影響は、睡眠不足という形となって、最も生活満足度を押し下げると考えることができるだろう。即ち、仕事で忙しい中でも、幸福に生きるためには、睡眠時間をまず優先的に確保すべき、ということがわかる。これは、経験的にも妥当な結果と言えるのではないだろうか。
また、おもしろいことに、伝統的な方法である順序プロビットによる推計では、大阪に住んでいる人の生活満足度が高かったのに、アンカリング・ヴィネットを用いた推計結果では、そうではなくなっている(差がない)、ということである。
表1 被説明変数が生活満足度の、順序プロビット及びアンカリング・ヴィネット分析
※分析結果からの一部抜粋 n=1002 *P<0.1 **P<0.05 ***P<0.01
この結果は、大阪の住環境が東京・愛知と比べて優れているから生活満足度が高くなる、ということではないことを示している。つまり、大阪人は、他の地域の人と比べて、生活満足度の基準が低い可能性を示唆している。「生きてるだけで丸儲け」哲学の影響かもしれないし、あるいは、タイガースが勝ったらそれでええねん・・・ということなのかもしれない。
参照文献
Akerlof, G. A. (1982). Labor contracts as partial gift exchange. The quarterly journal of economics,
97(4), 543-569.
d'Uva, T. B., Lindeboom, M., O'Donnell, O., & Van Doorslaer, E. (2011). Slipping anchor?
Testing the vignettes approach to identification and correction of reporting heterogeneity. Journal of Human
Resources, 46(4), 875-906.
King, G., Murray, C. J., Salomon, J. A., & Tandon, A. (2004). Enhancing the
validity and cross-cultural comparability of measurement in survey research. American political science review,
98(1), 191-207.
本コラムの元になる研究は、パーソル総合研究所から研究資金を提供し、実施されています。
参鍋 篤司(さんなべ あつし)
京都大学経済学部卒業、京都大学博士課程修了、博士(経済学)。
博士課程修了後は、京都大学、早稲田大学、東京大学などで研究員、助教。
その間、オックスフォード大学客員研究員、OECDコンサルタントを経て現在は、
流通経済大学経済学部准教授、株式会社政策基礎研究所上級フェロー。
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