公開日 2022/04/12
さほど流動性の高くない日本の労働市場において、多くの人は転職機会があることを知っていたとしても実際には「転職しない」という選択をする。本コラムのテーマは、「転職しない」という意思決定、言い換えれば、「人はどのように転職を諦めるのか」のメカニズムについて、ジェンダーによる差に着目して紐解いてみたい。
まず抑えておきたいのは、転職とは多くの日本人にとって「できれば避けたい」ことという事実だ。図1に示したのは、精神科医の夏目誠氏らが、勤労者のストレス原因になりうるライフイベントについて、そのストレス要因としての強さをランク付けしたものだ。少し古いデータだが、珍しい調査なので参考にしたい。
これを見れば、「会社を変わる」ということは、全65個のライフイベントの中で第6位と、かなり強いストレス要因となっている。第5位が「夫婦の別居」、第7位が「自分の病気や怪我」であることを見ても、「会社を変わる」ことによるストレスが、いかに大きいものであるかが分かる。単純に見れば、「転職よりも300万円以上の借金をする」「転職よりも病気になる」ほうが日本人にとってはストレスがかからないということだ。
図1:勤労者のストレス原因になりうるライフイベント
夏目誠, and 村田弘. "ライフイベント法とストレス度測定" 公衆衛生研究 42.3 (1993): p402-412.を参照に筆者作成
会社を変わる事のストレスの他にも、転職を押し止める心理にはさまざまなものがある。例えば、今いる会社や同僚への「裏切り者になってしまう」意識だ。
多くの日本企業では、実務未経験で会社に入り、OJTや研修によって社会人としてのイロハから細かく指導される。また、新卒採用は「同期」という同年代コミュニティが形成され、部署を超えた仲間意識も芽生えやすい。未経験入社からのスタートであることは、「社会人として育ててもらった」という想いを会社全体に対して蓄積しやすい。
パーソル総合研究所がアルムナイ=企業同窓生について行った調査でも、離職する会社への「恩返し」という意識は、入社から3年以上経っていることや育成が手厚かったことによって強いことが分かっている(パーソル総合研究所「コーポレート・アルムナイ(企業同窓生)に関する定量調査」)。
もちろん、職場以外にも、仕事をしてきた中で蓄積してきた、取引先や顧客などとの関係もある。そうしたこれまで構築してきた人間関係、慣れてきた仕事、通い慣れた機材などを捨て、また構築し直すということは、そもそも極めてストレスフルな行動なのだ。
また、よりミクロな意思決定の場面についても検証してみよう。多くの場合、人は自分が転職するかどうかを一人きりで決めるわけではない。転職市場には、「嫁ブロック」「夫ブロック」という言葉が存在する。これは正確に言い換えるなら、「パートナーによる転職への抵抗と制止」のことだが、この言葉が一般的になるほど、こうした現象は一般的なことだ。
パーソル総合研究所の調査では、男性が女性パートナーの反対によって転職を中止する、通称「嫁ブロック」は、全体の6%。対して、女性が男性パートナーに反対されて転職を中止するケースは全体の3.6%と嫁ブロックのほうが発生頻度は高い様子がうかがえた(図2)。
図2:パートナーからの転職ブロック率
出所:パーソル総合研究所・中原淳「転職に関する定量調査」
こうした配偶者・パートナーからの反対意見には、「男女で異なる転職への抵抗感」というジェンダーによる差が刻まれている。詳細は書籍「働くみんなの必修講義 転職学」を参照いただくとして、会社への不満や転職可能性をコントロールした上で分析すると、転職への意識には、男女で次のような関係が見られる。
男性の転職に対する「抵抗感」に影響しているのは、ひと言でいえば「今の会社での地位の安定」を求める意識だ。「いまより低い役職には就きたくない」という意識が、男性の転職を最も押し止めていた。また、転職への「抵抗感」は年収700万〜1000円前後の人たちの間で最も強く見られ、いわゆる中流の人々の安定志向が示唆される。
日本では転職によって直接役職が上がることはとても少なく、たとえマネジャー候補として採用される場合でも、転職後、しばらくは一般メンバーとして働くことが広く見られる。転職が地位の向上に直接結びつきにくいために、ある程度の期間働いた男性が「現在の会社での地位や役割」を手放すことへの抵抗感を高めていそうだ。
一方で、女性の転職に対する「抵抗感」に影響していたことをまとめれば、「家庭の安定」を望む意識だ。「夫にはなるべく転職してほしくない」「夫が転勤してもついていきたくない」と考える女性は、自身のキャリアにおいても現状維持を重視しがちであり、転職に消極的だった。女性は、自分の転職への決断に、「夫が今後転職するかしないか」ということにも左右されている。また、子どもがいることが転職抵抗感を強めるのも、女性だけに見られた傾向だ。
図3:男女のトレードオフのシーソー
筆者作成
この対比を表したのが図3だ。「地位」を安定させたい男性と、「家庭」を安定させたい女性では、転職というリスクとのトレードオフ関係が異なると整理できよう。それぞれ、「家庭を任せられる妻」、「子どもの存在」があることが、支点となっている。
こうしたジェンダーによる違いを背景に、家庭に子供がいる場合、夫の転職に反対する「嫁ブロック」は3.2倍、妻の転職に反対する「夫ブロック」は、2.2倍増加する。「家庭」という変数が変化したときに転職に与える影響が男女で異なるという上の図式の一つの傍証だ。
日本人にとって転職とは、そもそも「避けたい」行動である。それは、これまでの人間関係や慣れてきた仕事を捨てて再び構築し直すという、ストレスフルな行動であるからだ。さらには、転職の意思決定にかかわるパートナーの転職への意識が男女で異なることにも触れた。男性は「地位の安定」、女性は「家庭の安定」が転職への抵抗感に影響している。
このように人の労働移動とは、転職する当人や家庭にとっては人生の行く先を大きく左右する大きな意思決定である。伝統的経済学が仮定するような「需給調整」や「マッチング」のモデルは、こうした意思決定プロセスに対する極めて大雑把なシミュレーションにしかならない。「スキルがあれば転職」、「賃金が上がれば転職する」といった経済合理的な選択行動ではなく、転職はこうしたジェンダー差の存在する複雑な意思決定プロセスとして捉え直す必要がある。
シンクタンク本部
上席主任研究員
小林 祐児
Yuji Kobayashi
上智大学大学院 総合人間科学研究科 社会学専攻 博士前期課程 修了。
NHK 放送文化研究所に勤務後、総合マーケティングリサーチファームを経て、2015年よりパーソル総合研究所。労働・組織・雇用に関する多様なテーマについて調査・研究を行う。
専門分野は人的資源管理論・理論社会学。
著作に『罰ゲーム化する管理職』(集英社インターナショナル)、『リスキリングは経営課題』(光文社)、『早期退職時代のサバイバル術』(幻冬舎)、『残業学』(光文社)『転職学』(KADOKAWA)など多数。
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