近年、働き方に関する議論では「日本人は働かなくなったのではないか」という見方が散見される注1。働き方改革やコロナ禍の影響で統計上の労働時間は短くなっていることもあり注2、従業員のコミットメント低下を指摘する声もある。しかし、人事の観点で本質的に注目すべきなのは、労働時間の減少そのものではなく、生産性の基盤となる就業意識の変化である。特に、賃上げ局面での報酬配分の偏りは、従業員の「働く合理性」を揺るがす盲点になりつつある。
賃上げの流れは広がっているが、物価上昇が続く中で実質賃金は伸び悩んでいるのが現状である。さらに採用難を背景に初任給をはじめとした若手処遇を引き上げる動きが強まる一方、中堅以上の昇給幅は相対的に抑制され、賃金の上がり方に偏りが生じている。その結果、現場では離職意向の高まり、仕事への前向きな意欲の低下、育成行動の減少といった就業意識の変化が顕在化している。
こうした状況を踏まえ、本コラムでは、パーソル総合研究所の「賃上げと就業意識に関する定量調査」を基に、賃上げの現場で何が起きているのか、処遇改定が従業員の働き方にどのような影響を及ぼしているのかを整理する。
注1
例えば、2024 年には台湾半導体メーカー幹部の発言(以下記事参照)が論議を呼んだ。https://business.nikkei.com/atcl/gen/19/00678/100800001/?n_cid=nbponb_twbn (2026年3月10日アクセス)
注2
総務省「労働力調査」によると、働き方改革が始動した 2016 年と比べて、2024 年の週間労働時間は、男性正社員でマイナス 3.0 時間、女性正社員でマイナス 1.6 時間となっている。
※
e-stat より、労働力調査 基本集計 全都道府県 全国 年次(産業,雇用形態別平均週間就業時間及び延週間就業時間(2013 年~)-第 12・13 回改定産業分類による)を集計。
2022年以降、日本では約30年ぶりに3%程度の物価上昇が続いている注3。物価が上がり続ける状況では、同じ給与額では実質的には目減りする。そのため賃上げの必然性は高まるが、物価上昇がそれを上回れば生活水準は改善しない。
実際、厚生労働省の調査によると、2024年の実質賃金は前年比マイナス0.3%となり、3年連続の減少となった(図表1)。マクロ統計から見ても、賃上げが物価上昇に追いついていない状況がうかがえる。
注3
総務省「消費者物価指数(全国・持家の帰属家賃を除く総合)」によると、2022年から2024年の前年同月比の年平均は3%増以上で推移している。
※
e-stat より、総務省「消費者物価指数(2020年基準) 2024年 app1-1 長期時系列指数(全国・持家の帰属家賃を除く総合) 」より、前年同月比の年平均を集計。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/monthly/r06/24cr/24cr.html (2026年3月10日アクセス)
・就業形態計、調査産業計、事業所規模5人以上の値
・実質賃金指数は、名目賃金指数を消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)で除して算出
賃上げの状況を見ると、多くの企業で初任給引き上げやベースアップは実施されており、調査でも2023年から2025年にかけて自社でベースアップがあった人は約7割、初任給の引き上げがあった人は約6割に達した。しかし個人ベースで見ると、賃金の伸びは限定的で、2024年の年収が前年より増えた人は約5割にとどまり、物価上昇率を上回る3%以上の賃上げを得た人は4割程度であった(図表2)。
このように、企業単位の賃上げと個人の実収入は必ずしも一致しない。賞与や残業代の変動、賃上げの配分などが影響し、結果として、年収が上がらない従業員も一定程度存在する。
こうした年収の伸び悩みは、従業員の働き方や意識にも影響を及ぼしている。調査では、「努力しても給与が上がらないのであれば、最低限の仕事しかしなくなる」と答えた人が64.7%に達した。また、「昇給の見込みがないと、自分を成長させようという気にならない」が59.1%、「役割に応じた給与差がないと、人に教える気になれない」が55.8%であった(図表3)。ここから、金銭的報酬が働く合理性に大きく関わっていることがうかがえる。
ハーズバーグの二要因理論では、給与は「衛生要因」とされ、十分でなければ強い不満を生む一方で、満足や動機付けを直接高める要因とは位置付けられていない。しかし実際には、給与は衛生要因の中では満足側への寄与も大きく注4、今回の結果でも「給与が上がれば意欲が高まり」「将来の昇給期待がモチベーションになる」という動機付け的な側面も示されている。このことから、給与は不満防止の枠を超えて、努力や成長、育成行動といった従業員の合理的な選択に広く影響する要因になっているといえる。
また、働く上で最も重視することとして「給与・報酬」を挙げる人が最多であった点も、金銭的報酬が働く意欲の基盤にあることを示している(図表4)。
こうした「働く合理性」の揺らぎは、個人心理だけでなく、組織との関係性の観点からも説明できる。組織行動論では、従業員と組織の間には、双方が「どのように関わり、どのように応えていくか」に関する相互の期待や約束が形成されると考えられている。これは心理的契約と呼ばれ、明示された取り決めだけでなく、暗黙的な期待も含まれる。心理的契約が「きちんと果たされている」と認識されると、信頼や貢献意欲、定着意識が高まり、逆に「約束が守られていない」と感じると、不信感や離職意向の上昇につながることが多くの研究で示されている注5。
報酬は、こうした心理的契約を構成する重要な要素のひとつである。その意味でも、給与や処遇が今後どのように変わるのかという見通しを明確に示すことは、従業員の安心感やモチベーションを支える上で大きな意味を持つ。
注4
「新版 動機づける力」(ダイヤモンド社, 2009)p.17 の図表1を参照。
なお、「新版 動機づける力」は、以下の論考を収録した編著である。
ハーズバーグ, F.(2003)「モチベーションとは何か」 『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』2003年4月号
(原著:Herzberg, F. (1968). One More Time: How Do You Motivate Employees? Harvard Business Review, 46(1), 53–62.)
二要因理論の原典は Herzberg, F., Mausner, B., & Snyderman, B. (1959). The Motivation to Work(Wiley)であるが、日本語で概観するには 「新版 動機づける力」(ダイヤモンド社, 2009)が参考になる。
注5
服部泰宏「日本企業における心理的契約」(白桃書房、2013)参照
しかし近年、その将来の処遇に対する期待が揺らぎ始めている。採用難を背景に初任給をはじめとした若手の処遇改善が優先される一方で、中堅層以降では賃金の伸びしろが見えにくくなっている。賃上げの配分に偏りが生じた結果、賃金カーブはフラット化し、長年日本企業が前提としてきた報酬構造も変わりつつある。
日本企業では従来、若年期の賃金を抑え、中高年期で上昇幅を大きくする「後払い賃金」を前提とした賃金カーブが一般的だった。この賃金カーブは、若い時期には、労働者がその時点で生み出す成果に対して企業が本来支払ってもよい水準より低い賃金を支払い、その差分を中高年期に「後払い」として補う仕組みであり、長期にわたって企業と労働者の利害を一致させることを目的としている。Lazear(1979)の研究注6で示されているように、こうした構造は、現在の努力が将来の報酬として回収されるという期待を基盤とし、長期的な勤続や誠実な勤務、高い努力水準を引き出すインセンティブとして機能してきた。いわば、働くことの合理性は、時間軸の見返りを前提に成立していたのである。
しかし、この将来の回収可能性が不透明になると、働く合理性は一気に揺らぐ。「上がる予兆がないなら働き続ける意味は無意味だと思う。やる気がなくなるし辞めたくなる」という声が象徴するように、伸びしろの喪失は努力の意義そのものを弱めやすい。特に若手処遇だけが先行する現状では、「若年層は実績が乏しいのにもかかわらずもらいすぎ」「自分たちの世代が割を食っている」といった不公平感も生じやすい。
実際、40代以下の2〜3割が処遇改定によって「部下・後輩との給与差が縮まった」と感じ、40代以上の3割、20~30代の2割が「この先の給与の伸びが期待できなくなった」と回答している(図表5)。このように、現在の給与差の縮小だけでなく、将来の給与の伸びに対する不安も年代を超えて広がっている。
注6
以下を参照。
Lazear, E. P. (1979). Why is there mandatory retirement? Journal of Political Economy, 87(6), 1261–1284.
このような変化は、結果として組織内の行動にも影響を及ぼす。象徴的なのが育成行動の低下である。処遇改定で自身の給与が上がっていたとしても、部下・後輩との給与差が縮まった人の約4割、将来の給与の伸びが期待できなくなった人では約5割が育成意欲の低下を感じている(図表6)。
現場の声を見ても、「結局ギブ&テイクなので、給料がもらえないものに尽力する義理はない」、「少し上がっても新入社員の初任給の賃上げ率が高いのでモチベーションは下がる」といった声が挙がっている。将来の処遇改善を期待できず、かつ給与差も縮まる状況では、後輩に時間や労力を割くモチベーションは湧きづらく、育成行動の低下につながりやすい。
日本企業の人材育成はOJTに依存する部分が大きいため、育成意欲の低下は技術継承の停滞につながり、長期的には組織の競争力を損ねかねない。「新卒初任給の引き上げは、私は反対である(年長者が後進に教えるモチベーションを失ってしまう恐れ、それに伴う引継ぎや技術伝承が不足する恐れのため)」という声は、現場にまで危機感が及んでいる状況をよく表わしている。
本コラムで見てきたように、インフレと採用難が重なる中で若手偏重の賃上げが進んでいる。しかしその裏側では、賃上げが物価上昇に届かない層が半数以上、将来の給与の伸びしろが見えにくい、努力と報酬の関係が弱まる、育成意欲が低下するといった現象が起きている。これは単なる意欲の低下ではなく、報酬設計に対する従業員の合理的反応である。
したがって人事が取り組むべきは、現在の給与水準を整えることだけでなく、「努力がどのように将来の報酬につながるのか」という時間軸での設計と、期待の再構築である。特に、処遇の将来像を示すこと、育成へのインセンティブを制度的に組み込むこと、賃上げが限定的でも働き続けたいと思える環境を整えることが重要になる。
「働く合理性」が揺らぐ今こそ、人事が報酬設計を通じて期待と納得の回復を図ることが求められている。
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