パーソル総合研究所は、2023~2024年の人事トレンドワードとして《賃上げ》《リスキリング》《人材獲得競争の再激化》を選出しました。これら3つのワードについて、言葉の定義や人事領域でどのように扱われているかなどを解説します。
日本は1990年代半ば以降の長引くデフレの下で、賃金が上がらない状況が続いてきた。しかし、 2023年になって状況は大きく改善。大手企業における賃上げ率は、2022年の実績を1.72ポイント上回る3.99%(※1)で、それまでのピークであった1993年の3.86%を上回った。賃上げ幅は5800円上昇して1万3362円となり、ともにおよそ30年ぶりの高水準となった。大手企業に限らず、組合員約700万人を擁する日本労働組合総連合会(連合)においても同様の傾向となり、賃上げ率は平均で3.58%。3%を超えたのは1993年の3.90%以来の高水準であった。
賃上げが進んだ理由として、政府の後押しは大きいといえよう。「新しい資本主義」の実現に向け、分配戦略として「所得の向上につながる『賃上げ』」の必要性を訴えてきた岸田首相は、2023年初の国会開会にあたる施政方針演説でも、賃上げの必要性を訴えた。「企業が収益を上げて、労働者にその果実をしっかり分配し、消費が伸び、さらなる経済成長が生まれる。この好循環の鍵を握るのが、『賃上げ』だ。(中略)まずは、足元で物価上昇を超える賃上げが必要だ」と話し、インフレ率を超える賃上げに向けた決意をあらわにした。こうしたことからも、2023年は賃上げムードが高まった。
しかし、実質賃金は前年比マイナスが続き、物価上昇には賃上げが追いついていない状況だ。また、グローバルな人材獲得競争における待遇面での競争力強化という面でも、まだまだ物足りない賃上げ率といえる。例えば、昨今のDX(デジタル・トランスフォーメーション)の加速による世界的なDX人材獲得競争において、待遇面で不利であった日本企業としては、賃金上昇による採用競争力の強化に期待がかかる。しかし、国内で不足しがちなDX人材を海外から獲得するには、現状の賃金水準では太刀打ちできない。そのためか、危機感を抱いた企業の中には、新卒採用に活路を求めるケースも見られた。エンジニアを対象に新入社員でも年1000万円超の報酬を支払えるようにする採用など、2023年は一律で支給されてきた初任給を異次元レベルで見直すケースが出現した年でもあった。
日本企業で、長らく賃上げが行われなかった経緯について、簡単に振り返っておきたい。厚生労働省の資料(※2)によれば、長引くデフレの下で、日本の実質賃金(※3)は過去25年の平均上昇率が0.0%と変化がほぼ見られなかった。これに対して、米国では1.4%、イギリスが1.7%、ドイツが0.9%、日本に次いで上昇率が低いイタリアでも0.5%であり、日本だけが景気変動にかかわらず頑なに賃金を上げてこなかったことが分かる。
米国企業では、1990年代のIT革命以降、半導体やパソコン、スマホの設計開発などソフトウェア分野に経営資源(ヒト・モノ・カネ)を再配分した。その生産を、中国や韓国、台湾の企業が請け負った結果、経済運営の効率性が高まり、より高い賃金を求めて転職する人が増えた。また、2000年代のドイツでは、当時のシュレーダー政権が労働改革を進め、失業保険の給付期間の短期化や職業訓練制度(いわゆる学び直し)の拡充など、人々がより高い賃金を目指す環境を整備してきた。
一方で、日本企業は、バブルが崩壊し景気が後退していく過程で、その後遺症から消費の回復が遅れる中、顧客離れを恐れて思い切った値上げができず、雇用を守ることを優先するあまり、労使間でも賃上げ交渉が進まない状態が続いた。そうして、社会全体が「商品価格や賃金は上がらないものだ」ということを前提とした《常識》の中で、企業では労働者がサービス残業による補填など長時間労働をすることで、少しでも他社より良質なサービスを提供するという過当競争を繰り返してきた。
しかし、ここにきて物価は上昇し、賃上げが始まった。《常識》は、変わり始めているのだ。これに加え、労働者の長時間労働でどうにかやり繰りする経営にも限界がきている。
そもそも長時間労働は働く人々を疲弊させ、労働生産性への影響が懸念される。日本の労働生産性の低さはしばしば指摘されている通りであり、前述の厚生労働省の資料でも、過去25年の労働生産性(実質GDPマンアワーベース)の平均伸び率は、米国が1.7%、韓国が4.2%なのに対して、日本は1.3%であった。未曾有の人口減少を迎えている日本では、一人あたりの労働生産性を今よりも飛躍的に上げなければ、今後の経済成長はもはや見込めない。長時間労働を解消させない限り、賃金を上げて消費を促していくだけでは、持続的な経済成長は望めないだろう。
なお、2023年は、例年以上に建設や物流現場での事故が目立った。もちろん原因はさまざまだが、過度な労働による疲労、不注意の影響も報じられていた。業種・業界を問わず慢性的な労働力不足にある中で、こうした長時間労働に起因する事故が増えるようであれば、生産性向上以前の問題として人命が犠牲になる懸念も拭いきれない。
長時間労働に関して、政府は働き方改革の一環として2018年に「働き方改革関連法」(※4)を公布し、順次施行させている。働き方改革とは、厚生労働省による定義では、「働く方々が、個々の事情に応じた多様で柔軟な働き方を、自分で『選択』できるようにするための改革」だ。そのように各自の事情に応じて働き方を選べるよう、残業時間の上限規制や勤務間インターバル制度の導入、年次有給休暇取得の義務づけ、残業割増賃金率の引き上げなどの法制の見直しが行われてきた。しかし、働く一人ひとりが生産性を向上しつつ、長時間労働を解消するには、法制の見直しと併せて、やはりすべての企業・職場に、このような取り組みが広く《浸透》していくことが何よりも重要だ。そのためには、職場の管理職の意識改革、非効率な業務プロセスの見直し、取引慣行の改善が欠かせない。長時間労働をなくしていきながら、賃金を上げていく。この両輪が我が国の経済成長には不可欠だと考える。
※1 日本経済団体連合会「従業員500人以上の大手企業136社を対象とした2023年春季労使交渉・大手企業業種別妥結結果(最終集計)」(2023年8月)
※2 厚生労働省「第2回社会保障審議会年金部会年金財政における経済前提に関する専門委員会 資料」(2023年2月24日)
※3 労働者が実際に受け取った給与である名目賃金から、消費者物価指数に基づく物価変動の影響を差し引いて算出したもの
※4 厚生労働省「働き方改革を推進するための関係法律の整備に関する法律」 (2018年7月6日公布)
《賃上げ》の注目ポイント
岸田首相は2023年の夏に、「日経リスキリングサミット2023」(※5)で、日本型の職務給の導入、成長分野への円滑な労働移動と合わせ、「三位一体の労働市場改革を進めている」と強調した。その上で、働く人の学び直し(リスキリング)に関して、官民が連携してリスキリングを根付かせる重要性を訴えた。
政府は前年の2022年にも、職業能力の再開発、再教育を意味する個人のリスキリング支援に、5年間で1兆円を投じる方針をすでに発表している。それに呼応するかのように、厚生労働省は資格学習の費用を助成する「教育訓練給付」の補助率を引き上げて、人工知能(AI)などデジタル人材を増やすとした。また、経済産業省はリスキリングを経て再就職できた場合に、講座の受講費用など最大56万円の支援を受けられる制度を導入するなど、政官で相次いでリスキリング政策を打ち出し、2023年は「リスキリング元年」といってもよい様相であった。
民間企業でもデジタル人材を中心とした育成が進む。これまで積極的には対象としてこなかった50〜58歳のシニア社員に対して、ANAホールディングスはリスキリングプログラムを導入し、デジタルスキルの習得や会計士などの資格取得を後押しする制度を設けた。サッポロホールディングスは2022年から「全社員DX人財化」を掲げ、これまでにグループ会社も含めて国内約6000人にデジタル分野の学び直しを実施している。
政官民でリスキリングを強力に推進する背景には、「企業任せ」「行政任せ」では世界のレベルとスピードに追いつかないという危機感が双方にある。世界を見渡せば、従業員のリスキリングに対する取り組みはすでに他国で先行している。2020年に開催された「世界経済フォーラム年次大会(ダボス会議)」では、「リスキリング革命(Reskilling Revolution)」と題して、「2030年までに地球人口のうち10億人をリスキリングする」と発表。その背景には、第4次産業革命に伴って発展・変化する技術に対応するために、人々に質の高い教育や仕事の機会を提供しようとする戦略がある。生産年齢人口が今後も減り続け、深刻な人材不足の解消が喫緊の課題である日本にとって、リスキリングは他国以上に取り組まなければならない、緊急かつ重要な課題ともいえる。
これまでも重要視されてきたリカレント教育とリスキリングは、同じことを意味しているのか。総務省の「情報通信白書(平成30年版)」において、「リカレント教育」は、「就職してからも、生涯にわたって教育と他の諸活動(労働、余暇など)を交互に行なうといった概念」と定義されている。「社会人が新たに知識やスキルを習得する」という点で、両者が共通している一方で、その取り組み方には大きな違いがある。リカレント教育は文字通り「学習と労働を交互に行う」ため、いったん休職したり労働から離れたりする一方で、リスキリングは働きながら学ぶ機会を得ることを前提にしている。
パーソル総合研究所が2022年に実施した「リスキリングとアンラーニングについての定量調査」(※6)によると、就業者のリスキリング実態は、一般的な領域でのリスキリングの経験が3割前後、デジタル領域におけるリスキリング経験は2割程度しかないことが分かった(図)。競争力のあるデジタル人材を育成していく上で、就業者の自主性に任せるだけではグローバルレベルでさらに差が広がる懸念が漂う。
DX人材に関しては、もともと経済産業省が2018年に公表した「デジタルトランスフォーメーションを推進するためのガイドライン(DX推進ガイドライン)」における定義で、DX人材とは単にデジタル技術やデータ活用に関して精通したIT分野の人材だけではなく、DX推進部門以外の事業部門にいて、ビジネスの側面からデジタルを理解し、DXを進めていく人材も含んでいる。したがって、前述のサッポロホールディングスのような全社員を対象とした取り組みが必要不可欠であるといえる。
デジタル領域のリスキリングの成否には、リスキリングに対するキャリア上の見返りがあることが強く影響していることが、前述の「リスキリングとアンラーニングについての定量調査」で明らかになっている。国や企業が学びの機会だけをつくっても、学ぶ側の就業者が一部に留まっている現実において、リスキリングを学習機会の提供に終わらせず、具体的なポストへのキャリア・パスや処遇の提示、配置転換の施策との紐づけがカギとなってくるだろう。
※5 「岸田文雄首相の発言要旨 『日経リスキリングサミット』」日本経済新聞2023年9月1日
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA0173F0R00C23A9000000/
(参照日2023年10月11日)
※6 パーソル総合研究所「リスキリングとアンラーニングについての定量調査」
https://rc.persol-group.co.jp/thinktank/data/unlearning.html
《リスキリング》の注目ポイント
2023年は、例年以上に人材の獲得競争が激化した年であった。特に10月に施行された「インボイス制度」に対応するための業務のデジタル化や、DX化を推進するニーズが高まり、求人数が増加した(※7)。
DX人材はインボイス制度対応にとどまらず、企業の競争優位性がDX抜きでは成り立たない状況になりつつある昨今、社内育成だけでは質量ともに人材確保が追いつかず、外部から採用する人材獲得競争が激化している。
DX人材に限らず、人材不足自体は日本企業の多くの職種で深刻化しており、「人材が不足している」と回答した企業の割合は正社員で51.4%、非正社員でも4年ぶりに3割を超えた(※8)。厚生労働省による有効求人倍率の推移(※9)をたどると、2009年のリーマンショック後の0.47倍を底に2019年のコロナ禍直前まで1.60倍程度まで駆け上がってきた。コロナ禍の影響で経済が一時的な機能不全となったことで、2021年には1.13倍まで下がった。
しかし、2023年5月に感染症法上の分類が5類に移行したことで、行動制限が緩和された。それに伴い、人流が戻り、消費マインドが改善したことで国内景気が回復、2023年には1.3倍程度まで回復してきた。
労働市場では、これまでいわゆる「売り手市場」と「買い手市場」のサイクルが、景気の浮沈に連動してきた。しかし、さらに一歩引いて雇用環境の変化を長期的に見渡せば、景気連動だけによらない、生産年齢人口の減少といった構造的な問題や失われた30年の反動、そこにコロナ禍後の景気回復が重なる複合的な要因が生んだ人材不足現象が、2023年に一気に表出したといえる(図)。
今後の日本は、生産年齢人口の減少割合が、総人口の減少割合を上回ることが予測されている。つまり、総人口の減少で需要が減っていったとしても労働供給が追いつかず、経済成長が停滞することになる。
世界に目を転じれば、現在の世界人口は約80億人であるが、2037年には90億人、2058年には100億人を超え、2080年代にピークに達する見通しだ(※10)。経済成長率に関して、金融引き締め政策の影響で短期的には鈍化するものの、長期的には人口増加を背景に、世界では積極的な市場拡大、生産性の向上などによる経済成長を目指す拡大均衡にある。対して日本では、コスト削減や効率化などで利益確保を図る縮小均衡にある。
ハーバード大学経営大学院のルイス・ウェルズ名誉教授は、かつて日本が戦後に奇跡的な復興と高度経済成長を成し遂げた経済社会的要因は、政策として「人口増加」を背景に「重化学工業」に重点を置いたことだと論じる。時代が変わり、現在の日本は生産年齢人口の減少とともに、デジタル領域で欧米に遅れをとっており、「人口減少」と「競争優位産業不在」の二重苦の状態にある。例えば1988年頃、世界の50%以上のシェアを占めていた日本の半導体産業は、1990年代以降、徐々にその地位を低下させ、現在では10%程度とされる。先行する海外メーカーとの差を縮めるために、2023年には新会社の設立支援など官民一体で先端半導体の国産化を実現しようとする動きが加速した。しかし、そこには優秀なエンジニアの世界的かつ熾烈な人材獲得競争が繰り広げられており、人材の不足が国産化の足かせになりかねない実情がある。
売り手市場が続く見込みの中で、企業は求職者とのベストマッチングを図るためにも、人的資本経営に関する取り組み状況を誠実に伝えていくことが鍵となる。
買い手市場を前提とした人的資源経営では、企業側の視点で人材をコストとして扱ってきたといえる。しかし、ESG投資が世界的な潮流にあり、人的資本経営の必要性を問われる今、投資家や求職者、従業員といったステークホルダーの視点が欠かせない。
人的資本情報の開示は、ステークホルダーとの対話であり相互理解につながる。人材獲得が「企業側」の視点であれば、適職探しは個人の「求職者側」の視点である。今や、個人が適職探しにおいて、口コミサイトが応募先企業の真の姿を知る重要な情報になる時代だ。人材獲得のためには、企業には自社に都合のよい情報だけでなく、場合によっては苦情件数や内部通告件数など、一見、自社の利益にならないことでも、誠実に伝えていくことが求められるだろう。
※7 パーソルキャリア株式会社「doda転職求人倍率」(2023年8月)
※8 株式会社帝国データバンク 「人手不足に対する企業の動向調査」(2023年7月)
※9 厚生労働省「一般職業紹介状況(職業安定業務統計)」
※10国際連合「World Population Prospects 2022」(2023年10月ダウンロード)
《人材獲得競争の再激化》の注目ポイント
パーソル総合研究所が、2023‒2024年において注目される人事の3大ワードとして選出した《賃上げ》《リスキリング》《人材獲得競争の再激化》。それぞれのワードが注目される背景や現状、今後予想される展開などについて、マクロ経済の視点から賃上げの必要性を主張してきた山田氏と、ジンズホールディングス(以下、ジンズ)で人事戦略の責任者を務める堀氏、そして最終的なワード決定の責任者を務めた小林に、各々の立場から語ってもらいました。
マクロ視点の成長志向と学ぶ文化の醸成により日本全体での成長を目指すべき企業の人事担当者の方々に、2023年を振り返り、また2024年を見通す中で注目しているHRキーワードを伺いました。
《哲学的思考力》 混迷のVUCA時代に必要なのは、自分の頭で考えて探求する力株式会社ブレインパッド 常務執行役員CHRO/人事ユニット統括ディレクター 西田 政之氏
《インテグリティ&エンパシー》いつの時代も正しいことを誠実に 信頼されることが企業価値の根源日本通運株式会社 人財戦略部長/ダイバーシティ推進室長
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「学び合わない組織」のつくられ方
学びを遠ざける「ラーニング・バイアス」を防げ
コソコソ学ぶ日本人――「学びの秘匿化」とは何か
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ミドル・シニアの学びと職業生活についての定量調査[PART2 趣味の学習の実態・効果]
原資が不足する中での賃上げへのアプローチ
機関誌HITO「人事トレンドワード2023-2024」発刊記念セミナー ~パーソル総合研究所が選んだ人事トレンドワード解説~
HITO vol.21『人事トレンドワード 2023-2024』
マクロ視点の成長志向と学ぶ文化の醸成により日本全体での成長を目指すべき
企業と副業人材のミスマッチを防止する採用コミュニケーション
副業人材の獲得に重要な副業求人の記載事項 ~ネガティブ情報の「積極的開示」と、組織風土の「見える化」を~
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賃金に関する調査
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