安倍政権による「働き方改革」から約10年が経過。日本社会は長時間労働の是正を達成した一方で、業務の偏りや強制的な時間短縮による現場の混乱、経営者から労働時間規制への懸念の声が上がるなど、新たな課題も浮上している。本コラムでは、今起きつつある働き方改革の「揺り戻し」ともいえる現状を歴史的背景から捉え直し、これからの日本社会における「あるべき働き方」を考察する。
台湾に本社を置く半導体メーカーのTSMCが、熊本県に建設した製造工場を2024年に稼働させた。その後、日本経済新聞のインタビューで同社幹部が放った、「日本人が想定より働かない」という発言が、経済界をざわつかせた。「日本人は確実に『働く気』を失っている」(NewsPicks)という発信も見られるようになった。
日本を代表する企業経営者のひとり、楽天グループの三木谷会長兼社長も、「国家が一元的に単純な時間制限を押し付けるのは、仕事を通じて挑戦したり、より働いて自分の力を高めたり、収入を増やしたいという人の自由を奪う愚策だと思う」と、自身のXで述べている。
あるいは、ファーストリテイリングの柳井会長兼社長は、「人口が減っていることや、残業時間の規制がある中、労働生産性を高めないと、今からの日本はやっていけないのではないか。少数精鋭で仕事するということを覚えないと日本人は滅びるのではないですか」と、日本テレビのインタビューに答えている。
これらの発言を裏づけるように、日本経済新聞が行った「社長100人アンケート」では、9割の社長が労働時間上限規制の緩和に賛成し、政府も2025年に高市政権に代わったことを機に、労働時間上限規制の緩和に言及した。
これらの動向の背景には、2010年代初頭に過労死などが深刻な社会問題となり、政府主導で進められてきた「働き方改革」の光と陰が存在する。特に2019年の働き方改革関連法の改正以降は、主に残業時間の削減が進み、さらにコロナ禍で広がったテレワークによって柔軟な働き方が、日本社会に浸透していった。
実際に、厚生労働省のデータでも正規社員の労働時間は減っている(図表1)。なお、同様の傾向は、パーソル総合研究所の「働き方改革による就業と意識の変化に関する定量調査」でも確認されている。
労働時間自体は減り、働き方改革が実を結んだとみてよいであろう。しかし、労働時間が減ったことを改革の成果と見なすのは早計だ。厚生労働省による調査(図表2)では、時間外労働が月20時間以下の労働者のうち、「このままで良い」とする人が約6割いる一方で、「もっと働きたい」と希望する人も約1割存在する。また、同調査によると、企業側でも従業員の労働時間について増加を望む回答が16%見られる。
前述のように、政界や経済界から働き方改革の規制緩和を求める揺り戻しの兆候が、10年の歳月を待たずに現れてきている。ではそもそも日本、あるいは日本人は、働くことに対して歴史的にどのような価値観を持った社会、国民だったのだろうか。その労働観を過去の歴史から振り返ることで、現在あるいはこれからの働き方の姿が見えてくる。
「勤労は美徳」が、歴史的に見た日本の根底にある価値観だ。西欧では旧約聖書や奴隷制度の影響から、労働が必ずしも高く評価されてこなかった歴史と対照的であり、日本では真面目に働くこと自体が社会的に肯定される規範として広く共有され、高度経済成長を下支えてきた。
明治維新後、日本は急速な工業化を推進し、紡績業や製糸業を中心に近代産業を発展させた。この時期の労働力の8〜9割は、農村出身の若い女性だった。国際競争力を確保するために低コスト生産が求められ、その結果として低賃金かつ長時間労働が常態化し、労働条件は極めて厳しかった。近代化の進展はこうした構造の上に成り立っていた。
戦後になると、日本の働き方は大きな転換を迎えた。GHQによる財閥解体や農地改革などの制度改革を通じて戦前の経済構造は再編され、その後の朝鮮戦争特需を経て日本は高度経済成長期へと突入する。この過程で、長期雇用や年功的処遇を特徴とする「日本的雇用慣行」が形成され、企業を中心とした雇用システムが確立された。
このシステムの下では、企業は安定した雇用を提供する一方、労働者には企業への高い忠誠心や柔軟な働き方が求められ、企業と労働者の間には強い相互依存関係が構築された。この仕組みは、高い組織一体感と生産性を生み出し、日本の急速な経済成長を支える重要な要因となった。
しかし、長時間労働はバブル経済が崩壊して経済成長が見込めなくなっても、一貫して残り続けた。やがて過労死やメンタルヘルス問題などの深刻な社会問題として顕在化するようになり、労働時間の是正が日本社会における重要な課題として認識され、その後の働き方改革の取り組みに至った。
この課題に対応するため、2019年に働き方改革関連法が順次施行され、日本の働き方は新たな段階に入った。この改革は、長時間労働の是正、雇用形態にかかわらない公正な待遇の確保、多様で柔軟な働き方の実現を柱としている。
時間外労働には法的な上限規制が導入され、企業には労働時間の適正管理が強く求められるようになった。また、同一労働同一賃金の原則により、正規・非正規間の待遇格差の是正が進められている。さらに、フレックスタイム制の拡充やテレワークの普及など、働き方の柔軟化も進展した。特に新型コロナウイルス感染症の拡大を契機として、テレワークは急速に広がり、時間や場所に捉われない働き方が一定程度定着した(図表3)。
もっとも、これらの改革は必ずしも一様に成果を上げているわけではない。長時間労働は前述のように統計上、減少傾向にあるものの、業務量が変わらない中での労働時間削減は、管理職層の負担増やサービス残業、業務の持ち帰り、あるいは時間制約による新たな挑戦意欲や品質を追求する意欲の低下といった新たな問題を生みつつある(図表4)。
また、働き方の柔軟性についても、業種や企業規模による格差が大きく、とりわけ中小企業では制度対応が遅れる傾向が指摘されている。
加えて、近年では高齢者の就労促進や育児・介護との両立支援など、ライフステージに応じた多様な働き方の実現が政策課題として重視されている。これに伴い、企業には従来以上に柔軟で個別化された雇用管理が求められるようになっている。
今回、海外で働く人々に日本人の働き方に関するインタビューを筆者が実施したところ、日本人は朝早く出社し、遅くに退社する傾向があるとの見方が複数聞かれた。勤勉な国民と映っているようだが、一方で会議の多さや意思決定までの時間が不必要に長いと感じており、成果に対する労働生産性は決して高くないと、インタビュー対象者は指摘している。
以上を総合すると、日本の働き方は、勤勉さを重視する文化的価値観、工業化初期の低賃金・長時間労働、戦後の企業中心の雇用慣行といった歴史的要素を経て形成され、現在は働き方改革による転換期にあると位置付けられる。すなわち、従来の「長時間労働を前提とした働き方」から、「生産性や多様性を重視する働き方」へと移行している段階にある。
今後の課題は、制度面の整備にとどまらず、企業文化や業務プロセスの見直しを通じて、実質的な働き方の変革を実現できるかにある。働き方改革によって見えてきた課題が突き付けるのは、単なる労働時間の問題ではなく、挑戦的風土の低下が懸念されること、労働生産性を高めるマネジメントに、真正面から取り組まなければならないという事実である。
日本人の働き方が、歴史的に形成された強固な慣行を背景に持つがゆえに、その変革には時間と継続的な取り組みが求められる。個人が自分の力を発揮できる多様な働き方が可能になってきた昨今、複雑で多様な人材をマネジメントすることは非常に困難だ。しかし難しいからこそ、ここに競争優位性がある。困難を避けて本質的な改革に取り組まない企業は優位性を失い、淘汰される時代になったともいえる。
働き方改革により日本の労働時間は確かに減少し、テレワークなど柔軟な働き方も広がった。一方で、それは単純に「日本人が働かなくなった」ことを意味することではない。日本にはもともと「勤労は美徳」という価値観が根づいていたがゆえに、長時間労働を前提とした働き方が経済成長を支えてきた歴史がある。
現在起きているのは、その働き方を生産性や多様性を重視する方向へ転換する過程で生じている揺らぎである。時間外労働の削減は必要な改革である一方、業務量や意思決定の仕組み、マネジメントの在り方が変わらなければ、管理職への負担集中や挑戦意欲の低下、生産性の停滞といった新たな課題を生む。
これから企業に問われるのは、労働時間を増やすか減らすかではなく、限られた時間の中で個人の力を引き出し、多様な人材を生かしながら成果につなげる組織へ変われるかである。難しい変革だからこそ、そこに企業の競争優位性が生まれる。
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