2026年も賃上げの期待が高まっている。この3年間、労働力不足を背景に多くの企業が初任給の引き上げやベースアップを実施し、名目賃金は30年ぶりの高水準で伸びてきた。一方、実質賃金は3年連続でマイナスになっている。そのような状況のため、物価上昇を上回る賃上げが実現するか、賃上げ規模はどの程度になるかということだけに注目が集まりがちだが、賃上げの実態は、それほど単純ではない。
パーソル総合研究所の調査「賃上げと就業意識に関する定量調査」では、賃上げが物価上昇に追い付かないということ以前に、そもそも賃金が上がっていない人が4割を超えている。賃上げを行った企業が少ないからではない。では、なぜこのような事態が生じているのか。
問題の核心は、賃上げ「原資」もさることながら、その「配分」にある。本コラムでは、調査データや企業の賃金制度の変化を踏まえながら、物価上昇局面における賃金施策の在り方を提言したい。
20-64歳の正社員を調査対象としたパーソル総合研究所「賃上げと就業意識に関する定量調査」では、直近1年間に月収(基準内賃金)が上がった人は58.0%である(図表1)。年代別に見ると若年層ほど昇給した人が多いが、20代ですら66.5%に過ぎない。
2025年度に賃上げを実施、もしくは実施予定の企業は、東京商工リサーチの調査では85.2%、東京商工会議所の調査では82.0%である。賃上げを行った企業は、中小企業を含めて8割以上と思われるが、実際に昇給した人はそれを2割以上も下回る。賃上げを実施した企業の正社員であっても、昇給していない人が少なくない。
自社で賃上げがあったにもかかわらず昇給しないパターンを、定期昇給とベースアップに分けて解説する。
まずは、定期昇給だ。厚生労働省「令和7年賃金引上げ等の実態に関する調査」によれば、定期昇給制度がある企業は81.2%と、広く普及している。
定期昇給とは基本的に①「毎年決まった時期に実施される昇給」であり、②「一般社員層(組合員層)の大半が昇給する」ものである。毎年4月にほとんどの人が何らか昇給するというのが、その典型的イメージだ。
しかし、定期昇給制度ありという企業の中には、上記②の要件を満たさないものも少なくないようだ。まず、すでに等級や役職ごとに設定された賃金の上限額に到達している人に定昇はない。そして、一定年齢以上を昇給停止とする企業も多い。その場合、いずれも対象は50~60代であるが、図表1で見る通り、20~40代においても昇給していない人が3~4割に及んでいる。「洗い替え方式」の賃金制度が増えているためだと思われる。
「洗い替え方式」とは、人事評価成績が標準の場合には昇給せず、成績優秀の場合だけ昇給するような制度だ。更改型や選抜昇給型と呼ばれたりもする。管理職層においては、バブル経済が崩壊し人事の成果主義化が進んだ1990年代後半ごろから散見され、目新しいものではないが、近年、ジョブ型人事制度の普及などに伴って、一般社員層にも広がってきている。少なくとも社員の半数程度は標準成績であろうから、彼らが昇給しない制度はもはや定期昇給制度と呼ぶことはできない。
しかし、社員に対して、すでに職責や能力に応じた賃金を支払っているという前提に立てば、標準成績の社員が定期昇給しない「洗い替え方式」は、賃金論としてそれなりの合理性がある。ただし、モチベーションと物価上昇への対応については別の議論が必要だ。物価上昇への対応については、ベースアップが鍵になる。
本コラムではモチベーションの問題はまたの機会に譲り、物価上昇への対応を掘り下げる。
ベースアップの基本的な役割は物価上昇への対応であり、企業業績の反映である。物価上昇によって実質賃金が目減りすることを防ぐこと、そして、企業業績にふさわしい賃金水準を実現することだ。洗い替え方式で定期昇給がなくても、物価上昇に見合うベアがあれば実質賃金水準は保たれるわけだが、実際にそのようなベアが行われることは極めて稀だ。
なぜか。賃金論では、「昇給原資-定昇原資=ベア原資」という考え方が基本になっている。定昇は制度として毎年実施すると定められているので、ベアよりも優先される。ベア原資は定昇原資を差し引いた残りであり、それだけで物価上昇分に見合う額を確保することは難しい。
それでも、かつてはオーソドックスな定昇制度が一般的だったため、標準成績であれば標準的には2%程度の定昇が得られ、その定昇にベアを加えた合計額で物価上昇分を補うかたちだった。ところが、洗い替え方式の場合、標準成績では定昇ゼロなので、標準成績の社員の賃金は目減りする。これまでの物価上昇率をごく大雑把に振り返ると、1980年代中頃から2020年頃まではデフレであったり低インフレであったりと目立った物価変動はなかったものの、2022年以降は物価上昇が続いている。物価上昇期においては、洗い替え型の場合、これまでのベアのやり方では標準成績者の賃金は目減りしていく一方だ。
そもそも標準成績の社員とは何か。たとえばS-A-B-C-Dの5段階評価を行うとすると、たいていの場合、真ん中の「B成績」は「要求水準をほぼ満たしている」という意味だ。つまり、自社の戦力として機能しており、必要な組織貢献を果たしたということである。そのような社員たちの賃金が上がるどころか目減りしていく状況はいかがなものか。企業は、B成績社員の処遇の在り方を再考する必要がある。おそらく、社員の半数程度はB成績だ。社員のマジョリティに報いることができない企業はサステナブルではありえない。
以前、洗い替え方式の賃金制度の企業の経営者に「物価が上がっているのに、なぜベアを行わないのか」と尋ねたことがある。「当社は4%以上の昇給原資を使っているし、10%以上昇給している社員も少なくない」との回答だった。洗い替え方式でB成績はゼロ昇給、C~D成績はマイナス昇給なのだから、S~A成績の昇給額を大きくできる。その企業の方針は成績優秀者厚遇であり、B成績社員の処遇は優先順位が低い課題だったということだろう。物価安定局面では、さほど問題ないかもしれないが、物価上昇局面では矛盾が目立つ。
現在、洗い替え方式の企業にとっては初めての物価上昇局面である。物価上昇は今後まだしばらく続くとの予想がある。この局面においては、「昇給原資-定昇原資=ベア原資」ではなく、「昇給原資-ベア原資=定昇原資」という考え方が必要ではないか。成績優秀者に報いるには、賞与や昇格など、別の方法がある。
前項のベア「原資」に関する課題と並んで、「配分」の問題も看過できない。ベアを実施している企業においても、その「配分」を精査する必要がある。
ウェブなどでは、ベアは「賃金を一律に引き上げる」などと説明されていることも多いが、例えば、平均賃金40万円の企業でベア3%、12,000円だった場合、実際には社員全員の賃金を一律3%引き上げたり、一律12,000円引き上げたりすることはほとんどない。ベア3%、12,000円とは、社員1人当たりのベア「原資」の平均額であり、各社員への「配分」額とは異なる。実際には、「定率1.5%+定額6,000円」であったり、定額部分は資格等級別の設定だったり、基本給ではなく役割手当に加算するなど、さまざまなやり方で配分される。
パーソル総合研究所の調査では、「ベースアップあり」の企業でも、基準内賃金がほとんど変わらない、または減少したという人が2割を超える(図表2)。
近年、労働力不足から新卒採用競争が激化、初任給を大きく引き上げる企業が後を絶たない。新卒社員の賃金が先輩社員の賃金を追い越すわけにはいかないので、若手社員の賃金補正が必要になる。そうでなくても、年功賃金の是正は多くの企業に共通するテーマであるため、ベア配分は一般的に若手重視だ。絶対額の賃金表をもたない企業では、一定年齢以上にはベアを配分しない例もある。
若手重視のベア配分、成績優秀者重視の定昇配分、それらは基本的な方針としては妥当なものだが、同時に、およそ40年ぶりの物価上昇局面にあること、そして、自社にとって欠くことのできない戦力であり、マジョリティである「B成績社員」への配慮を忘れてはならない。マジョリティのモチベーション維持、リテンションのためには、企業は賃上げの平均額だけでなくB成績社員の賃上げ額を注視した上で、ベアの配分を検討することが不可欠だ。労働組合組織率は長期的に低下傾向であり、賃上げやベア配分は不透明化している。労働組合の有無にかかわらず、企業は、制度として明示されている定昇だけでなく、当年度のベアをどのような方針で、どう配分したかを見える化し、賃金の納得性を高める努力を行うべきだ。
賃上げムードが高まっており、名目賃金は30年ぶりの高水準で伸びているが、実質賃金は3年連続でマイナスになっている。そのような状況の中、賃上げ規模ばかりが注目されがちだが、賃上げの「配分」も看過できない。
調査では、自社が賃上げを行ったにもかかわらず、昇給しないケースが少なくない。定昇では、標準成績では昇給しない「洗い替え方式」が増えていると思われる。ベアでは、若年重視のベア配分が進んでいるなどの影響も大きいと考えられる。
物価上昇局面においては、社員のマジョリティである「B成績社員」の賃金の目減りに対する配慮が欠かせない。賃上げの平均額だけでなく、B成績社員の賃上げ額を注視すべきだ。賃上げ原資の確保については、定昇よりもベアを優先する判断も必要ではないか。また、賃金の納得性を高めるためには、どのような方針でどの表にベアを配分したかを見える化していく必要がある。
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