公開日 2023/12/01
目まぐるしく移り変わる近年の人事トレンド。そのトレンドの軌跡を客観的な形で残し、冷静に議論したり振り返ったりできるようにすることで、「今、人事において本質的に注力すべき大事なテーマ」をより確かな目で見極めたい。そのような思いからパーソル総合研究所は人事トレンドワード特集を昨年、企画した。
人事のトレンドワードを探るために、多くの人事担当者からのネットアンケートやヒアリングを行い、2023~2024年において注目される人事の3大ワードとして《賃上げ》《リスキリング》《人材獲得競争の再激化》の3つを選定した。それぞれのワードが注目される背景や現状、今後予想される展開などについて、マクロ経済の視点から賃上げの必要性を主張してきた法政大学経営大学院 教授 山田氏と、ジンズホールディングス(以下、ジンズ)の人事戦略本部でディレクターを務める堀氏、そして最終的なワード決定の責任者を務めたパーソル総合研究所 上席主任研究員 小林に、各々の立場から語ってもらった。
法政大学経営大学院 イノベーション・マネジメント研究科 教授/株式会社日本総合研究所 客員研究員 山田 久 氏
京都大学経済学部卒業。住友銀行(現三井住友銀行)入行。1991年日本経済研究センター出向。93年より日本総合研究所調査部出向。同調査部長、チーフエコノミストなどを経て2019年より副理事長。15年、京都大学 博士(経済学)。23年副理事長退任、客員研究員。同年より法政大学経営大学院イノベーション・マネジメント研究科教授。
株式会社ジンズホールディングス 人事戦略本部 堀 友和 氏
2004年、業務用スーパー及び飲食店運営などを行う企業に現場社員として入社。バーテンダー、鉄板焼き居酒屋店長などを経て人事部門へ異動。その後、生活雑貨ブランドを展開する企業に人事部門のリーダーとして転職。 11年に成長企業での挑戦を考え、ジンズホールディングス(当時はジェイアイエヌ)に入社。総務、労務、財務部門を経て、20年より現職。
パーソル総合研究所 シンクタンク本部 上席主任研究員 小林 祐児
上智大学大学院総合人間科学研究科 社会学専攻博士前期課程修了。NHK放送文化研究所、総合マーケティングリサーチファームを経て、2015年パーソル総合研究所入社。労働・組織・雇用に関する多様なテーマについて調査・研究。専門分野は人的資源管理論・理論社会学。著作に『リスキリングは経営課題~日本企業の「学びとキャリア」考』(光文社)など多数。
小林:今回のトレンドワードの選考で、まず外せないと考えたのが《賃上げ》です。この水準のインフレと賃上げは、日本においては数十年ぶりです。「うちの業界はどれくらい賃上げしたらよいか」と企業から相談されることもあり、各社が他社動向を見ながら賃上げを検討し、実際に多くの業界で賃上げが実現しました。一方で、物価はそれ以上のペースで上がり、実質賃金の前年同月比はマイナスが続いています。
ジンズでは、2023年9月から店舗勤務の正社員の月額基本給を一律1万5000円(約7%)上げられています。2022年には全国の準社員・パートの時給を東京水準に改定されたそうですね。意図などについて伺えますか。
堀氏:もともと当社には、従業員の給料を上げていこうという経営の基本方針があり、その目的・背景は主に次の2点です。1つは、採用市場で魅力のある賃金を提示しなければそもそも当社を選んでもらえません。加えて、労働市場の中でもサービスや物販の仕事を希望する人にできるだけ報いたいという思いがあります。もう1つは、われわれの「MagnifyLife(マグニファイライフ)」というビジョンです。人生を拡大、拡張することでより豊かにしようという思想であり、お客様はもちろん、すべてのステークホルダーに対して同じ思いを持っています。当然、従業員にもそうであり、正社員だけでなく、準社員やパートの人にもインパクトのある賃上げを行い、従業員皆の生活をより豊かにできればと考えています。
山田氏:ジンズの賃上げは、ベースアップに加え、正社員登用を含めた昇進昇格の仕組みを整えて連動させている点が良いです。賃上げは、多くが物価水準や会社の業績に合わせて行われます。それも必要ですが、それ以上に、個人のキャリアに合わせて毎年少しずつ上げていくとか、能力の向上分を認めて上げるなど、人材育成やキャリア形成と賃上げの間に相関が
あるというメッセージの打ち出しが大事だと思います。個人視点(キャリア)と社会視点(物価対応)の両面で賃上げするのが理想的だということです。
――2023年、賃上げする企業が増えた理由について、改めて教えていただけますでしょうか。
山田氏:理由の1つは、言うまでもなく労働力不足です。2つ目はグローバル化です。日本の賃金は主要国の中で最も低く、物価水準も低いため、「これは上げていく必要がある」と、危機意識を持った経営者が増えています。3つ目はインフレ、物価高です。物価がこれだけ上がると、さすがに従業員の生活が苦しくなるため、企業には賃上げが求められます。
最初の2つは構造的なもので、賃金を上げていかなければ良い人材を採用できず、グローバル展開にも限界が出てきます。一方、インフレは不確定要素が多いものの、現在の経済構造の変化を考えると、当面物価が大きく下がることは考えづらいでしょう。
物価がどう決まるかというと、経済学では人々の「期待」が重視されますが、最近では「ノルム」※という概念が注目されています。これは企業や個人の「何となく物価はこれくらいで上がっていくのでは」という感覚のことです。ノルム形成には、世の中の
動きや政策、業界リーダーの発言、メディア報道などが影響します。そして、ノルムは賃金とも相関が高いものです。従業員は消費者でもあるため、賃金が上がれば少し高くても良いものを買うようになり、企業はそのコストを価格に転嫁できるからです。
※ノルムとは、物価や賃金の先行きについて、社会の人々が共有する「相場観」のこと。(参考:渡辺努〈2022〉『物価とは何か』〈講談社選書メチエ〉)
小林:ジンズのプライシング戦略が気になるところですが、まずは物価上昇の中、店舗の売り上げに何か変化はありますか。
堀氏:顧客一人当たりの購買単価は上がっています。この後の話題にも出てくると思いますが、当社は人材育成に力を入れ、従業員の知識向上に取り組んでいます。販売員の知識量が増えたことで、お客様の課題に対して提案できることが多くなり、お客様に納得して商品をお買い上げいただくことで、結果として顧客満足やリピートにつながり、一人当たりの購入単価
が上がっていると考えています。
山田氏:プライシング戦略において、価格を安く抑えるのではなく、商品の価値を上げて正当な対価を顧客からいただき、従業員にも還元するという思想ですね。ジンズにはそうした思想がもともとあったのでしょうか。
堀氏:あったと思います。当社はアイウエア業界では後発ですが、ただ安く売ろうと打ち出したことは一度もありません。アイウエアは1日中、顔に装着しているもので、着け心地やデザインにこだわるべきプロダクトだという考えの下、それに見合った適正価格を大事にしています。また、現場の従業員への還元についても、売り上げが上がってから還元するのでは
なく、先に賃上げすることで、会社からの期待を伝え、それが結果として会社へのロイヤリティやモチベーションにつながればよいという考えです。
山田氏:良い考え方ですね。先行投資としての賃上げは、個人には「期待」というプレッシャーになり、会社にとっては「儲けなければならない」というプレッシャーになります。マクロ視点での賃上げの重要な機能は、産業構造や事
業構造を時代の変化に合わせて変えるドライブになることです。『賃上げをしないで単にコストを下げればよい』となれば、『従業員がいくら頑張っても賃上げしなくてよい』となってしまいます。単なる安売りは、価値のあるものを提供する努力をせず、安ければよいという戦略であり、顧客をないがしろにする行為といえます。
小林:物価は低いことが当たり前という消費者感覚がようやく変わり、今は価格転嫁のチャンスがきていると
もいえますね。良いものを作って高く売るという、いわば当たり前のビジネス戦略を循環させていくために必要なもののひとつが、人材の獲得だと思います。労働市場を見ていると、中小企業や現業職などを含むハローワークの求人倍率は2022年末あたりで天井を打ち、その後は下降傾向を見せています。
一方で、中堅以上の企業の正社員求人が多い転職市場の求人倍率は、上がり続けています。特にITやコンサルティングなどの分野で、人材獲得競争がコロナ禍前より激しくなっており、《人材獲得競争の再激化》が起こっています。こうしたいわゆる戦略人材の獲得について、ジンズではどのように考えていますか。
堀氏:当社も、グローバル戦略を一緒に進めてくれる人材やIT・デジタル人材は特に、今後もさらなる獲得が必要です。「眼鏡屋」のイメージが強く、当社のグローバル領域の仕事がどのようなものかをイメージしていただけないことも多いため、採用現場では、ジンズのグローバル事業におけるゴールを示すことで、当社の魅力を伝えています。
一方、「人材の獲得」だけでなく、「既存人材を生かす」ことも重視しています。当社では従来、デジタル部署のITリテラシーが高い人材を対象に、特別手当てを支給してきました。しかし、今は一般の部署の社員でもITの勉強ができる研修の仕組みを整え、そこでITリテラシーを高めた人がデジタル分野の課題解決や新しい企画ができるようになれば、同じだけの手当てを支払うようにしています。
小林:DXというと、DX本部などの専門部署を社内につくり、そこに所属する人たちだけにデジタル戦略を担当させる企業が多いですね。しかし、その人たちが現場や事業に明るくないためにボトルネックになっているという例もよく聞きます。ジンズは、デジタル戦略担当以外の社員にも手当てを出して、デジタルを社内に馴染ませようと考えているのですね。
堀氏:ええ。また以前は、即戦力のITプロフェッショナルを採用していたのですが、最近は「その領域で働きたくて勉強を始めたが、今の会社では実現性が薄い」という人も採用しています。プロフェッショナルの力ももちろん必要ですが、われわれはジンズのビジョンやグローバルでのビジネス戦略、顧客に何を提供したいかなどに共感してくれる人を採用し、そこか
ら専門性を高める方向にチャレンジしていきたいと思っています。
山田氏:ビジネスの成長に不可欠なのは、顧客価値を上げていくことです。そのためにスキルがある人、グローバル経験がある人を採用しなければと考えがちですが、スキルや経験は価値を出すための手段であって、いわば入口に過ぎません。大事なのは、採用した人が成長し、能力を発揮し、会社や顧客の価値創造に貢献してくれることです。DXにおいても、専門部署を置くのはよいのですが、そこだけで独立して何かをやっているだけではあまり意味がありません。あらゆるビジネスにデジタルを使うこと、つまりあらゆる人がデジタルを使えることが求められるわけで、ジンズのような取り組みは大事だと思います。
――人材育成に注力されているジンズでは、このたび社員の国家資格取得のサポートも始めたそうですね。
堀氏:2022年に「眼鏡作製技能士」という国家資格が新設されたことを受け、資格取得を目的とした社内教育機関「JINSAcademy」を設立しました。資格取得者が増えれば、従業員のスキルアップと同時に、お客様に安心してジンズを選んでいただくことにもつながると考えています。また、社内に教育機関があると、社内資格の勉強も一緒にできるほか、会社側も受
講者がどこで悩んでいるかが分かり、フォローアップがしやすいというメリットもあります。
小林:《リスキリング》については、コーポレートユニバーシティがブームになっています。内容は各社千差万別で、今まであった教育体系に名前を付けただけというものも多いようです。JINSAcademyは、特殊なスキルにひもづいた教育機関という印象です。
堀氏:そうですね。加えて、店長向けには、アイウエアの専門知識やスキル以外の研修も充実させています。アイウエアは提供までにタスクが多いプロダクトなので、以前はテクニカルなスキルを優先して研修していましたが、今は小売りを行う人間として何が重要かを精査し、「店舗づくり」や「人づくり」についてインプットを行う研修に力を入れています。そういうスキルを現場も欲しがっているためです。
小林:従業員には「販売」は好きでもアイウエア以外の商品も扱ってみたいなど、モチベーションにばらつきはないのでしょうか。また、そのような従業員にはどのように動機づけしているのでしょうか。
堀氏:アイウエアは視力矯正だけでなく、花粉から目を守るなどの機能性、ファッション性も求められるプロダクトです。顧客のニーズもさまざまです。ですから、お客様に本当に満足していただけるアイウエアを提供できるスキルがあれば、小売業界ならどこに行っても最高のものを提供するアプローチや提案ができるようになると確信し、そう伝えています。また、
グローバルに市場を展開しているアイウエアブランドは他にあまりないため、日本発のプロダクトでグローバル展開の夢が描ける市場にチャレンジできるという部分も、社員の動機づけにつながっています。
小林:さまざまな調査でも明らかなように、日本の企業では自発的に学ぶ人が少ない状況です。これは、企 業が従業員に学ぶ機会を与えてこなかったという面もあるでしょう。その反省もあってか、近年コーポレートユニバーシティの設置や従業員に学びを促す企業が増え、政府の働きかけもあって、《リスキリング》が注目ワードになりました。今後日本人がもっと学ぶようになるかどうかは、来年にかけて正念場になる気がします。日本でリスキリングをスムーズに進めていくにはどうすればよいでしょうか。
山田氏:企業がこれまでに蓄積してきたノウハウを従業員に伝えていくという伝統的な教え方は今後もあってよいのですが、今の時代は一企業の枠を超えて知識を得たりトレーニングしたりする機会をつくっていくことが重要になっています。
海外ではすでにそういう仕組みがあり、例えば米国では、ビジネススクールに多様な国や企業から人が集まります。スウェーデンでは、人材育成は実務との連携が重要と考え、1年目は座学で勉強させますが、2年目は企業で実務を経験させます。企業にとっては必ずしも採用しない人にも実務研修を提供することになりますが、協力的です。なぜなら、その中で良いと思った人材を採用することもできる上に、一歩引いて見れば、採用しなかった人たちも、他社に採用されて仕事上の協力関係者になったり、消費者(顧客)になったりするからです。つまり、他社の従業員は自社の事業に寄与する人材にもなり得るし、従業員は消費者にもなり得る。企業がそういう「マクロ視点」の成長志向を持ち、一企業内で閉じることなく人材育成をする。そのような風潮が社会全体に広がっていくことが大切だと思います。
小林:日本のリスキリングは大企業の正社員に焦点を当て過ぎ、失業対策というより「働かない中高年層の押し上げ策」になっているように見えます。中小企業は大企業以上にリソースも社外とのつながりも少なく、自社の中での成長余地が限られます。そこで私が期待しているのは、地方大学の活用です。大学の多くはリカレントプログラムがあり、人が集える場所を持っています。地方大学と中小企業が連携するハブとなるプレーヤーさえいれば、地方の中小企業におけるリスキリングの可能性はぐんと広がると思います。
――ありがとうございます。では最後に、3ワードの今後に向けた展望や期待について一言ずつお願いします。
堀氏:リスキリングは社内にイメージしやすいモデルケースがあると効果的に実践が進むと予想されるので、そういうモデル人材の育成を目指します。賃上げは、われわれくらいの規模感の会社でもここまで従業員に還元できるということを、定期的に社会に向けて情報発信できるよう頑張っていきたいと思います。
山田氏:《賃上げ》《リスキリング》《人材獲得競争の再激化》の根本にある問題は、人口減少による労働力の圧倒的な不足です。まさに待ったなしの状況で、3つのワードが出てきたのではないでしょうか。人口が減ると経済も停
滞すると思いがちですが、そんなことはありません。ジンズが眼鏡の価値を再定義しているように、顧客価値はある意味で無限大なのです。成長している企業の共通点は、いかにして経費を削減するかではなく、いかに売り上げを増やすかという拡大均衡の姿勢であ
ることです。そのような成長志向がどう強まり広がっていくかが2024年のポイントになるでしょう。
小林:加えて、このリスキリングブームの中、企業は社内に「学ぶ文化」をつくれるかどうかの岐路に立っていると思います。今回の3つのワードはつながっていますが、《賃上げ》と《人材獲得競争の再激化》は現象なので、実務として改革のしがいがあるのは《リスキリング》なのではないでしょうか。今後もその動向をしっかり見守っていきたいと思います。
選考に当たり、「注目している人事ワード」を聞いた以下①~④の事前調査などの結果を参照した(上位3~5位を抜粋)。
「注目している人事ワード」事前調査結果
※文中の内容・肩書等はすべて掲載当時のものです。
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