なぜ、パワハラは起こるのか。科学的なデータとエビデンスを基にパワハラ対策を推進し、働く人を、日本を、元気にしたい

公開日 2023/10/06

従業員の健康と幸せに大きく作用し、企業の生産性低下や人材流出といった影響を及ぼすパワハラ問題。2020年6月の「労働施策総合推進法」の一部改正によってパワハラの定義が示され、防止措置も義務化されたが、いまだ問題は後を絶たない。そこで、10年以上にわたってパワハラ研究に取り組み、データやエビデンスを基に科学的な視点でパワハラ対策を研究している津野香奈美氏に、パワハラの現状や対策、今後注目しているテーマなどを伺った。

津野香奈美 氏

神奈川県立保健福祉大学大学院 ヘルスイノベーション研究科 准教授 津野 香奈美 氏

東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。博士(医学)・博士(保健学)・公衆衛生学修士。10年以上にわたり職場での人間関係と健康への影響を研究。これまで100本以上の原著・総説論文を発表。2014年日本行動医学会奨励賞、2017年日本産業衛生学会若手論文賞、2021年国際行動医学会Early Career Award受賞。2020年度 厚生労働省「ハラスメント実態調査」検討委員、2020~2021年度 厚生労働省「中小企業におけるハラスメント相談体制実証事業」検討委員なども務める。

  1. パワハラの実態や原理原則を知ってほしい
  2. 部下と仲良くなればパワハラを防げるという誤解
  3. パワハラ未満のグレーゾーンに着目
  4. ワーク・エンゲイジメント施策の前にパワハラ対策を

パワハラの実態や原理原則を知ってほしい

――パワハラを研究対象に決めたきっかけは何だったのでしょう。

大学在学中のアルバイト先でパワハラを目撃し、人材を潰す指導法に強い違和感を抱いたのがきっかけです。しかし、大学生だった当時は何もできず、悔しい思いをしました。また、こうしたパワハラが他の企業でも横行しているのではないかという危機感も抱きました。


パワハラによって体調を崩し、職場を去っていく人を目の当たりにしたことから、最初は職場のメンタルヘルスに関するスペシャリストになろうと、大学院に進みました。そこで、パワハラなどのハラスメントが健康へ及ぼす影響について、日本では科学的な研究や実態調査がほとんどなされていないことを知り、それならば自分がやろう、と決めました。職場でのパワハラ対策を促進するために、まずどのくらいの人がパワハラ被害に遭っていて、パワハラをなくすにはどうしたらいいのか、科学的に証明しようと考えたのです。


――そういった科学的なアプローチに対する企業側の反応はいかがでしたか。

津野氏

これまで数多くの講演や研修を行ってきましたが、パワハラの発生状況や効果的な対応策、エビデンスなどをお話すると、パワハラについての認知が広まってきた現在でも、多くの方から「知らなかった。もっと早く知りたかった」と言われます。実態を知らなければ対応策に生かせず、根拠のないやり方では効果を期待できません。


私は物ごとの対策を講じる際に、一番重要なのは「敵を知る」ことだと考えています。敵がなぜその行動をするのか、その理由を知らなければ対策もできませんし、戦いに備えることもできません。相手が行動を起こす原理を知ることが、スタート地点です。


パワハラについては、すでに世界各国で研究されており、多くのデータも揃っています。それらのエビデンスを基に、なぜパワハラが起こるのか、どうして上司が怒鳴るのかなどの原理を理解できれば、パワハラが《得体の知れない敵》ではなくなります。当てずっぽうの対策ではなく、根拠のある効果的な対策を行うためには、パワハラを正確に知ることが先決です。


このように、多くの人にパワハラの原理原則とそのエビデンスを知ってもらい、正しい対策によってパワハラをなくしていってもらいたい、また無用にパワハラで訴えられる事態も防ぎたい──そんな思いで、ライフワークとして取り組んでいます。


――研究開始から10年以上経った現在も、精力的に研究を続けられていますが、何が原動力になっているのでしょうか。

私が働く人の健康をテーマに研究をする理由は、社会的なインパクトがとても大きいからです。社会は、私たちが仕事を通してさまざまなサービスを世の中に提供したり、納税したり、そして子どもを産み育てたりすることで活性化します。労働世代は生産年齢人口と呼ばれる通り、労働者が元気であることが生産性を高め、経済を活性化させ、次世代を育成し、それが日本の元気につながっていくのです。社会や日本を元気にするために、まずは働く人を元気にしたいという思いが、この研究を続ける最大のモチベーションになっています。


労働者が元気でなくなる最大の要因が、人間関係によるトラブルです。例えば、精神障害や自殺に関する労働災害の原因の約4割がハラスメントによるものです。日本全体の生産性にも影響を及ぼすパワハラに、危機感を持って研究・活動を続けてきましたが、なかなか解決しない問題であることから、気づいたら10年以上が経っていたという感じです。


――研究を始められた頃と比べて、パワハラを取り巻く状況は改善されたと感じますか。

暴力行為などのひどいパワハラ事象は明らかに減少しています。逆に、企業のパワハラ研修では、「ハラスメントをするとこんな罰則を受けますよ」と脅すような内容が多くなっているので、委縮する上司の方も増えているようです。


例えば、もっと部下と話したり、接したりしたほうがいいかなと思っても、ハラスメントと言われてしまうことを恐れて、コミュニケーションは極力控えようと考える上司が増えており、新たな課題となっています。ただ、これもパワハラを正しく理解していないがゆえに生じる課題だと思います。

部下と仲良くなればパワハラを防げるという誤解

――誤ったパワハラ対策へのもどかしさもあるのではないでしょうか。

そうですね。最近、とあるハラスメント対策に関する有識者会議の資料を見たのですが、ある組織で行われているパワハラ防止策として「コミュニケーションの活性化」が掲げられていました。活性化自体は良いのですが、その内容が「部下のプライベートについて細かく話を聞く」というものだったので驚きました。それではハラスメント対策ではなく、むしろハラスメントを誘発してしまう可能性があります。


プライベートを根掘り葉掘り聞くということは、もしかしたら政治思想や性的指向など、本来聞くべきでないところまで踏み込んでしまうかもしれません。そうしたリスクを考慮せず、安易に推奨していることに、大変危機感を抱きました。


プライベートを知ることがハラスメント対策になると勘違いする理由のひとつに、部下と仲良くなれば多少強い言動でもハラスメントにはならないといった誤解があります。しかし、仲の良し悪しはハラスメントかどうかの判定には関係ありません。あくまでも、第三者から見て、行っている言動そのものが不適切かどうかによって判断されます。この間違った認識は、とても深刻だと感じています。


――部下と仲良くならなければ信頼関係が築けない、という誤解もありそうですよね。

確かに、そういったご相談を多くいただきます。例えば、同じ部署の中でも「ある部下とはよく話し、飲みにも行く間柄なので、厳しく指導できるが、他の部下に対してはどう対応すべきか分からない。部下が飲み会に参加するかどうかで指導に差が出てしまう」といった悩みです。


これも、飲み会でしか本音を話せない、部下と信頼関係を築けないという誤解があると思います。しかし本来、「信頼関係があること」と「仲が良いこと」はイコールではありません。上司は部下の話に耳を傾けて意見を尊重し、部下は安心して上司に判断を仰ぐことができるといった関係性が、信頼のベースになります。その意味では、飲み会に参加するかどうかで、信頼関係構築に差が出てしまうのは良いことではありません。


公平性のためにも、部下と信頼関係を築くのはあくまでも業務時間中に行い、飲み会はあくまでも部下同士の親睦の場とするなど、オンとオフの切り替えが大切です。単に仲良くなることを目指すのではなく、業務時間中の関わりによって、部下から信頼されることを第一に目指していただきたいと思います。

パワハラ未満のグレーゾーン「インシビリティ」に着目

――今後の研究に向けて、現在、注目しているテーマはありますか。

今、注目しているのは、「インシビリティ」です。インシビリティとは、他人に対する思いやりのない、失礼な態度のことで、例えば、質問に答えない、意見に関心を示さない、担当業務の判断を信用しないなどです。最近は暴力などの明らかなパワハラが減っている一方で、このようなインシビリティレベルの行動が増えています。パワハラ認定はされないレベルのものですが、既にさまざまな健康影響や生産性低下との関連が明らかになっています。


パワハラ防止が法制化され、パワハラはやってはいけないという意識が広まっている中で、法に触れないレベルであるインシビリティのケースはさらに増えていくでしょう。また、企業としても、パワハラ認定はできないため対処しづらく、放置されがちな危険なケースともいえます。そのため、インシビリティレベルの行動の防止にも取り組んでいきたいと考えています。


どの職場も、すべての人が働きやすく、誰もが尊重される職場になることを目指して、インシビリティが企業や労働者にどのように影響するのかに関するエビデンスを蓄積して、科学的根拠に基づいた防止対策を示していきたいです。


――個人側はインシビリティの段階で相談するのは難しく、企業側も把握しづらいように思うのですが、実際はどうなのでしょうか。

ハラスメントの相談窓口を設けると、目立ったパワハラ案件の対応がおおむね終わった後に、グレーゾーンの相談が増える傾向があります。「自分の受けている行為はパワハラにあたるのか」「パワハラではないかもしれないが、受けていてつらいので対処してほしい」といったものです。そのような相談が寄せられるようになるには、まず組織内で発生している明らかなパワハラを止めることが必須です。実績が積み重なれば、社員は会社を信頼し、安心して相談窓口に自分のケースを訴えようと思えるはずです。

ワーク・エンゲイジメント施策の前にパワハラ対策を

――パワハラやインシビリティを防ぐための職場づくりでは、何が重要になるのでしょうか。

津野氏

パワハラを抑制するための組織風土づくりに関しては、「心理社会的安全風土」がパワハラの発生を減らすというエビデンスがあります。心理社会的安全風土とは、「ストレスの要因に対して職場がしっかり対応している」「職場でのストレスを上司に訴えやすい、相談しやすい雰囲気がつくられている」といった職場の共通認識のことで、経営層や上級管理職が「生産性」と同様に、従業員の「健康(メンタルヘルス)」を重要視している風土のことです。つまり、パワハラに特化した対応をするというより、要は健康で働きやすい、お互いを尊重し合える職場づくりをすればよいともいえるでしょう。


職場づくりの観点では、パワハラを防止するには、業務量を調整し、長時間労働や厳しいノルマをなくすことが有効であることも分かっています。しかし、実際に業務量過多の状態でパワハラが発生している会社が、「パワハラ撲滅のために明日からノルマをやめよう」いう決断にはなかなか至りません。目先の業績に影響するため、状況を変えようとする勇気ある経営者は残念ながら少ないのが現状です。パワハラは往々にして不正・不祥事とセットで行われるため、こうした問題が明るみに出たときには時すでに遅しなのです。


また、今の時代、パワハラが起こるような企業には人材が集まりにくくなっています。そして、それは今後さらに加速していくと予測されます。労働者不足という問題を抱える中で、パワハラにいかに本気で取り組んでいくかは、企業の存続にも関わる経営課題です。そのような認識を経営層にはぜひ持っていただきたいです。


――「働きやすい職場づくり」という意味では、各企業とも、パワハラ対策以外にも最近はさまざまな取り組みが行われていますね。

ワーク・エンゲイジメントの向上やリスペクト・トレーニングなど、最近ではポジティブな取り組みを行う企業が増えています。もちろん、それはとても良いことなのですが、私が経営層や人事の方にいつもお伝えするのは、それはあくまでも「ハラスメントがないことが前提だ」ということです。


社内にパワハラが存在しているのに、皆でリスペクトする文化をつくりましょうとか、コミュニケーションスキルを上達させましょうとか、そうした取り組みを全社で行ってもうまくいきません。他の企業でやっているからと、トレンドになっている新しいトレーニングなどを行う前に、一番にやっていただきたいのはパワハラ対策です。


パワハラを一定数なくすことができれば多くのことがうまくいき、企業は従業員を守ってくれるというメッセージも伝わります。そうなって初めて、他のポジティブな取り組みに対しても、「企業は本当に働きやすい職場づくりを考えてくれているのだな」と、従業員から受け止めてもらえるのだと思います。


従業員の幸せのために、企業の経営層や人事部門の方たちは、さまざまな方法を模索し、新しい取り組みにチャレンジされていることと思います。しかし、働きやすい職場づくりの基本は、まずパワハラをなくすこと。ここから始まるのだということを理解して、パワハラ対策に取り組んでいただきたいです。


※文中の内容・肩書等はすべて掲載当時のものです。


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