公開日 2025/02/26
中年期には、体力や気力、身体機能の衰え、残された時間に対する展望の狭まり、さらには今後、自分がなし得る仕事や昇進の限界など、内面的に悩みや問題を抱えやすい。「自分の人生はこれでよかったのか?」と生き方の見直しを迫られ、アイデンティティの危機に直面する時期でもある。2024年12月20日(金)に開催されたキャリア自律セミナー第3回目では、「中年期の危機」に関する研究分野を切り開いた、広島大学名誉教授でHICP東広島心理臨床研究室代表の岡本祐子氏に、はたらく中高年のアイデンティティ発達のメカニズムから、危機の乗り越え方までをお話しいただいた。
本題に入る前に、まずは「アイデンティティ」「キャリア」「危機」の3つの言葉について定義を明確にしておこう。「アイデンティティ」は精神分析家エリクソンが提唱した概念で、主体的な自分のあり方(独自性あるいは個としての自立性)と、所属集団の中での自分の居場所感のことをいう。 「キャリア」は仕事・職務を中心とした生涯にわたる経験。「危機」は破局的な状態を連想してしまう言葉ではあるが、本来は発達的な分かれ目や岐路のことを言い、人生という時間軸から捉えると「人生の曲がり角」を意味する。
かつてアイデンティティの獲得や危機といったテーマについては、青年期を中心に研究が進められてきた。しかし岡本氏は、中年期にもアイデンティティの危機があると説く。それが顕わになってきたのは1980年代以降。オイルショックが起こり、高度経済成長がストップして低成長の時代に入り、少子高齢化が進んで、職場での不適応、熟年離婚、介護などを背景にストレスを抱える人が急増。日本社会の大きな転換期を背景に、中年期の生きづらさも増した。
「いくつになっても自分というものがよくわからない、何が自分に向いているのか、どこが自分の居場所なのかがわからない『漂流するアイデンティティ』が、1980年代以降、相当増えてきています」と岡本氏。中年期は人生の最盛期であると考えられていたが、現代における中年期は、決して安泰ではなくなっている。職業・家族・身体に変化が起こり、「もう自分は若くはない。残された時間には限りがある」と自己の有限性を自覚せざるを得なくなる。(図1)
加えて、人生の前半期に積み残してきたさまざまな葛藤や問題が中年期に噴出する。「本当はこんな人生を送りたかったのにできなかった」「こっちの道へ行ってよかったのか」「親としての自分はこれでよかったのか」など、自分の人生に対するネガティブな思いを感じたり、「やり直すといっても、もう大したことはできない」といった思いが生じる。中年期には、青年期とは異なる形のアイデンティティの危機に直面するのだ。
図1.中年期危機の構造
今回のテーマである中年期を含め、人は人生の中で、どのようにアイデンティティを獲得していくのか。乳幼児期から老年期まで、人の一生における心の発達のプロセスを見た場合、古典的な心理学では青年期までは右肩上がり、成人期は平穏な時期となり、初老期から下り坂となる「台形型」と考えられていた。それに対し前述のエリクソンは、乳幼児期から老年期の各ステージで発達的な課題がある「階段型」を提唱した。
岡本氏は、さらに中年期にも真剣にアイデンティティの問い直しに取り組む時期があるのではないかと考え、「アイデンティティのラセン式発達モデル」を提唱している。(図2)このモデルでは、青年期にアイデンティティが確立され、その後中年期と定年退職期にアイデンティティの再確立、すなわちアイデンティティの問い直しが起こる。
「中年期には、自分の内側と外側から変化が起こり、ありがたくない変化もいっぱい体験して自分が揺さぶられます。でも揺さぶられることによって、今まで見えなかった自分というものが見えてくる。揺れている自分にどう対応するか、さまざまな変化をどう受け入れ、これからどう生きていくのか。そうした問い直しをして、もう一度アイデンティティの組み立て直しをする。それによって人生後半期をもっと納得して生きていくことができます」
図2.アイデンティティのラセン式発達モデル
では、そのような中年期の危機を乗り越えるにはどのようにしたらよいのか。岡本氏は中年期の危機を乗り越える力として、「自己に向き合う力」を挙げる。
「臨床心理学では、健康なナルシシズムが非常に大事だと言われています。一言で言うならば、自分自身をちゃんと受け入れて肯定できること。自分に限界が見えてきたけれど、それも自分なんだという感覚をもてることが、中年の危機を乗り越える土台になります」
危機を乗り越えていくには、身体的な衰えや体調、バイタリティの変化に気づき、自分の半生を問い直して、人生の後半期をどう生きていこうかと模索し、軌道修正あるいはこれまでの自分とは異なる、納得できる自分の生きざまに軌道転換していくプロセスが大事だ。このようなプロセスをたどることで、自分に対する肯定感が増し、アイデンティティが再確立されていく。
中年期の危機を乗り越えるために、自己に向き合うことが大切である。その向き合い方は、どのような観点で考えたらよいのだろうか。岡本氏は、「個としての自分」と「関係性の中での自分」を、一人称・二人称・三人称の視点で考えていくのがよいと言う。(図3)
一人称の心理学とは、自分のアイデンティティ、生きざまを問い直し、自分がやってきたことを個として納得できるのはどこか、納得できないのはどこかをしっかり考えてみること。二人称の心理学は、関係性の世界。自分と他者との関係性はOKか、大事な人たちとどういう関わりをしてきたのか、独りよがりではなく相手のこともちゃんと理解してきたかといった視点で見直す。三人称の心理学は、ライフサイクルにおける中年期とはどういう時期か、その意味を深く知ることだ。
図3.自己を観る観点
自己に向き合う中では、ネガティブな変化に意識が向かいがちだが、一方でポジティブな変化も当然あるはず。このポジティブな変化も意識していくことが、中年の危機からの回復には重要だ。中年の危機から回復することによって、「現実」を受け入れ、自己の立て直しができる。それらを支える土台として、「自分の感覚」が信頼できるという資質が獲得できる。「現実を受け入れ、やりたかったけれどできなかったことに折り合いをつける力は、中年期には特に大事な心の資質」と岡本氏は述べる。
また中年期の自己との向き合い方には、「活路獲得型」「模索・探求型」「現状維持型」「漂流型」の4つのタイプがある。(図4)最も望ましいのは、自分らしい生き方や働き方を模索し、積極的に向き合っていく「活路獲得型」だ。模索をしないと、「今の自分でいいんじゃないか」と保守的な「現状維持型」になる。それも悪いことではないが、中年期はそれで生きていくことができたとしても、現役引退期にはもう一度自分を振り返らざるを得なくなる。最も心配なのが、自分と向き合うことをせず、成り行き任せの「漂流型」の人。「自分を振り返ることも、向き合うこともしないで中年期・老年期を生き延びられる人はそうそういません。自分らしい生き方を模索し、そこにコミットしていく心の態勢を中年期からもっておくことは、非常に大事です」
図4.中年期職業人のアイデンティティ様態
ここからは質疑応答で寄せられた質問のうちのいくつかを紹介していこう。
【Q1】「自己に向き合う力」を養うために必要なこと・大切なことは?
自分の能力の限界を知らされてしまうのが中年期の危機なので、やはりつらいです。それを乗り越えるうえで大事なのは、自己と向き合うことから逃げないことだと思います。会社に入社したときは90点ぐらいやれると思っていたのに、70点ぐらいにしかならないようだと。でも、だから自分はダメなのかといえば、そんなことはまったくない。70点だってすごいことです。ですから主体的に自分を見つめて、その70点をプラスに理解することが大切です。本当につまずいてメンタルに影響しそうなら、社内の産業医でも臨床心理士でもよいので、遠慮なく専門家の力を借りてください。
【Q2】最近は「答えを求める人」が多い。自分に向き合って考えてもらうには? また「漂流型タイプ」の人にアイデンティティの再構築を促すには?
答えを求める人に自分との向き合い方を考えてもらうには、まずは答えを求められた人が、しっかりと話を聞いてあげることが大切です。時間はかかりますが、「どういうところからあなたはそう思うの?」「どんなふうにうまくいかなくなったの?」と一緒に考え、本人が答えを導き出せるように支援するスタンスが大事です。
漂流型の人は、不満や不安を感じてはいるのですが、それがどこから来ているのか、何がどうなっているのかがわからず、状況に流されている状態です。そのような人たちにアイデンティティの再構築を促すには、やはり自分に向き合うことから出発してもらう必要があります。そのきっかけとしてキャリア研修を活用するのもよいかもしれません。
【Q3】不確実性の高い時代。アイデンティティを再構築してもまた崩れてしまうこともあるのでは? 安定した自己を築くには?
安定した自己を築くには、やはり定期的に適切なタイミングで自分と向き合うことを続けていく、ということに尽きるのかなと思います。また「自分の心の中に何が起こっているか」「どんな経験からこのようなことになったのか」を分析する力を、上司や先輩の方たちが育てていくことも大事ではないかと思います。
広島大学 名誉教授
HICP東広島心理臨床研究室 代表
岡本 祐子氏
Yuko Okamoto
広島大学名誉教授。HICP東広島心理臨床研究室代表。教育学博士、臨床心理士、公認心理師。広島大学大学院教育学研究科博士課程後期修了。主著:『成人期における自我同一性の発達過程とその要因に関する研究』(風間書房,1994)、『中年からのアイデンティティ発達の心理学』(ナカニシヤ出版,1997)、『アイデンティティ研究の展望Ⅰ~Ⅵ』(共編著)(ナカニシヤ出版,1984-2002)、『アイデンティティ生涯発達論の射程』(編著)(ミネルヴァ書房,2002)、『アイデンティティ生涯発達論の展開』(ミネルヴァ書房,2007)、『世代継承性シリーズ 第1巻 プロフェッションの生成と世代継承』(編著)(ナカニシヤ出版,2014)、『世代継承性シリーズ 第2巻 境界を生きた心理臨床家の足跡─鑪幹八郎からの口伝と継承』(編著)(ナカニシヤ出版,2016)、『世代継承性シリーズ 第3巻 世代継承性研究の展望─アイデンティティから世代継承性へ』(編著)(ナカニシヤ出版,2018)、『世代継承性シリーズ 第4巻 経験の語りを聴く─人生の危機の心理学』(編著)(ナカニシヤ出版,2022)その他多数
※文中の内容・肩書等はすべて掲載当時のものです。
【経営者・人事部向け】
パーソル総合研究所メルマガ
雇用や労働市場、人材マネジメント、キャリアなど 日々取り組んでいる調査・研究内容のレポートに加えて、研究員やコンサルタントのコラム、役立つセミナー・研修情報などをお届けします。